※この記事は大学野球総合版~2024年秋季リーグver~に掲載された同名記事を編集および再加筆したものとなります。
振り返れば厳しい戦いであった。それでも最後は土壇場で踏みとどまった。春季リーグの国学院大学野球部は開幕から苦しい時間が続く。前年覇者の青山学院大学との2戦をいずれも、0-1で落とす。そして、中央大学にもあえなく2連敗。気づけば9戦が終わり1勝8敗勝ち点0。残留はかなり厳しい状況にまで追い込まれた。しかし、そこから底力を発揮し、3連勝。辛くも逃げ切った。
エースとしてチームを支えた坂口翔颯。リードオフマンとして自慢の打棒を発揮し、大学日本代表にも選出された柳舘憲吾。活躍した選手は多く存在する。それでも、国学院大学の残留は新名凌馬の力なくしてならなかったのではないかと思わざるを得ない。序盤は不安定なピッチングを見せる場面もあったが、終盤に3連勝を達成した試合ではいずれも新名がリリーフでマウンドに上がり無失点に抑えた。それでも、さらに上を向く。「負けられないところから3連勝をしたのは、4年生中心にやっていたからだと思うし、それを踏まえて秋もあんなに苦しい思いをしたくない。チーム一丸となって、まずは初戦の青学戦を取ってから、波に乗ってリーグ優勝、日本一に繋げたい」。秋は青山学院大学の4連覇阻止へ動き出す。
もともと左投げの選手が少なかったことからピッチャーを始めたという新名。スペシャリストの原点はその頃にあったのかもしれない。野球以外で好きだったスポーツはバドミントン。それでも難しかったのは野球。「小さいボールを小さいところに投げ込まないといけない」。精密なコントロールに対する意識は少年の日の新名にも生まれていたのではないか。
そして、大分舞鶴高校へと進学する。将来、大学野球でプレーすることを想定しての進学であった。一つ上の代でプレーしていたのは後に東都大学野球の舞台でライバルとなる常廣羽也斗(現・広島東洋カープ)。中学時代の新名はこの人がいれば勝ち上がれそうだと思ったという。県立高校ということで当然、室内練習場などはない。それでも、最後の夏に創部史上初の準優勝を成し遂げる。それは恐れを知らない者たちの勢いによる部分も大きかった。「いきいきというか、結構勢いよく行ってしまって、それがうまくいくことが多かった。サインもないなど、やりやすかった。何をやっても良いというような、自分の好きなことやって失敗を恐れないチームスタイルが夏は良い方向に進んだ」。当時、新名は主将を務めていた。「周りがやっぱ結構みんな頭が良いというか、頭が結構切れる人が多かったので、練習メニューとかは良いものを出してもらったりした。僕はそんなに頭が良いことは言えないので、がむしゃらに不器用にやっていた」。1つ下の世代も準優勝。2つ下の世代は二十一世紀枠で甲子園の土を踏む。新名は決して強豪校とは言えなかった大分舞鶴高校が階段を駆け上がっていくさきがけにいた。
大学では環境も変わった。「高校の時と違って野球が本当に大好きな人が集まってるから、話が合った。もちろんレベルは違いますし、練習場所、練習メニューも違うので、最初は先輩、同期、後輩に圧倒されることが多くて、なんとか自分のポジションを掴むことに必死だった」。大所帯でリーグ戦のベンチを争った。「35人くらいピッチャーがいて、その中でベンチに入れるのも6人か7人なので、どうやってベンチに入ろうかと考えていた。僕と同じタイプはいるし、僕よりすごい選手なんて山ほどいた」。新名は自らの武器を磨くことを決心する。「スピードだとなかなか厳しいので、コントロールであったり、投げっぷりや、変化球、フィールディングといった色々な方面で、これならやれるというものを身につけていこうかなと思った」。もともとボールを曲げることは好きだった。変化球を磨き続けた新名は国学院の左の職人へとなっていく。
厳しい場面にはいつもと言っていいほど、新名がマウンドにいた。1年生ながら明治神宮野球大会のベンチ入りメンバーに入った新名は初戦でいきなり厳しい場面を任される。初戦の仙台大学戦で国学院大学は2点ビハインドの8回裏に一挙5点をあげ、逆転に成功する。3点リードの9回に変わったピッチャーが1点を奪われると新名の名前が告げられる。「あの時はピッチャーが多分6人か7人いて、全然投げない予定だったのですけれど、だんだんとピッチャーが減っていって、ラストに僕だけになった時は大丈夫かなと思った。それでもマウンドに上がったらやるしかないと言われた。結構いい結果に繋がった」。なんとかピンチをしのいだ新名であったが、その緊張ぶりは想像に易くない。「3、4年生のすごいピッチャーたちが先に投げて、安心してからの僕のような感じだった。周りも『うわ、大丈夫かな』という感じだったし、それ以上に僕が結構やばいなと野球人生で初めて思った。緊張した」。その試合で投げたピッチャーには後にプロ野球や社会人野球の舞台で活躍する武内夏暉(現・埼玉西武ライオンズ)、池内瞭馬(現・三菱重工East)や坂口などが登板していた。それでもピンチをしのいだのはやはり新名だった。
厳しい登板での精神面の成長も大学での成長の一つだ。「逆にそういう場面は開き直れる。打たれたらどうしようと1年生の時は思っていた。2年生になって打たれても自分のせいではないというようなメンタルではないとやっていけないかなと思った。強気にバッターに向かいながら、打たれてもしゃあないくらいになってからは、だんだんと競った場面でも自分のものにできるようになった」。今年の亜細亜大学との初戦の厳しい場面でもその心のもちようは変わらない。「相手はイケイケで、こっちはやっぱ静かではないですか。 気持ちで負けてしまったら負けるかなと思うので、僕は負けないようにしている。心は燃えている」。ピンチの場面での精神面はどこまでも重要だ。「大事なことはあんまり考えすぎないことではないですか。投げる球はもうこのリーグでやってる人は全員抑えられる球を持っている。あとはもうメンタルが大事。考えすぎてしまうと、余計ボールが下に行ったりして甘くなったりしてしまうことがある。考えすぎず、普通にやれば抑えられる」。それは簡単なことではない。しかし、新名のその言葉には説得力がある。
これからの国学院の投手陣を背負う後輩にも期待をかける。注目株は最優秀防御率を獲得した飯田真渚斗や成長著しい榊原遼太郎。投手陣のそろった国学院大学ではベンチに入ることすら難しい。「レギュラー争いは大変。でも、僕はベンチに入らなくてもそいつらに頑張ってもらえれば良い」。そんなことはない。職人・新名凌馬にはリーグ優勝・日本一というまだ残された仕事がある。
新名は大学3年半を振り返る。「一番濃い時間で、野球人生で一番楽しかった。ここに入れることも当たり前ではないし、簡単なことじゃなかった。入ってみたらすごくいろんなものが詰まっていた」。日々の寮生活、それはかけがえのないものだった。同期と遊ぶこともある。グラウンドに出れば真剣に練習に取り組む。「普通の人には経験できないことだった。もちろん普通の人は毎日遊べたりすると思うが、野球に時間を捧げる日本一を目指すのはやっぱりすごい。他の人では味わえない4年間だった」。
もうすっかり4年間が終わり、大学野球を終えたような新名の口ぶりだが、まだあと一シーズン残っている。そう伝えると「頑張ります」と返す。野球を始めてから10年以上が経つ。「小さい頃はバッティングの方が好きだった。神宮大会でバッティングをしたい」。バッティングがしたい?神宮大会でプレーしたい?それならばリーグ優勝以外の道はない。
ミニコラム
Barber新名の真相
神宮球場での登板の際に電光掲示板に表示される「Barbar新名」の文字。いったいそれは何のことかと多くのファンが気になっていることだろう。その理由を本人に問うと「僕、髪切れるんですよ。結構僕の利用者が多い」と意外な答えが返ってきた。床屋に行った際に自分でも髪を切ることができると思うようになり、切り方などを美容師に質問するようになったという。そして、道具を揃え、他の部員の髪を切るようになった。利用者は20〜30人ほどだという。キャプテンの土山翔生の髪を切るのも新名の役割だ。グラウンドの外でも職人ぶりを発揮している。