
※この記事は「大学野球総合版~2024年秋季リーグver~」に掲載された記事を修正・再加筆したものです。
WBCの開催や、欧州地域での野球市場の拡大により世界中で野球人口が増加している。アジア諸国でも野球人口は増加している。アジアの国々の中でも日本や韓国とならびにアジア野球を牽引してきた存在が台湾である。2013年WBCにおける日本と台湾の対戦は記憶に新しい。日本人が台湾のプロ野球チームの監督を務めることや、台湾出身の選手が日本のプロ野球チームで活躍することもあるなど、両国の野球を通した交流は多種多様である。
亜細亜大学野球部は東都大学野球1部リーグで27度を誇る伝統的な強豪校である。その実力は数々のプロ野球選手や社会人野球選手を輩出していることからも明らかである。亜大はその実力もさることながら、その厳しい練習が一般によく知られている。特に有名なのは「やりがい」と呼ばれる練習。400メートルのトラックを肩車やうさぎ跳びで何週も回る過酷な練習である。
蘇璟(スージン)が日本の野球界へ飛び込んだのは今から5年ほど前のこと。プロ野球選手だった父のもとに生まれ、幼い頃から野球はそばにあった。2017年、日本への留学を決意させる大きな試合を目にする。
夏の甲子園、3回戦、大阪桐蔭対仙台育英。後にプロ野球の舞台へと進む多くの選手が出場したその試合は9回裏まで大阪桐蔭が1点リードで進んだ。しかし、9回裏に仙台育英がチャンスをつくり、サヨナラ勝ちをおさめる。台湾では日本の甲子園がテレビで放送されており、蘇璟もその試合を見た一人であった。父も礼儀正しい日本の野球を高く評価していた。家族にも後押しされ、広島県にある尾道高校への留学を決断した。
日本語は中学時代に台湾で1年ほど勉強した。しかし、実際に会話をすると話は別だ。最初のころは全くコミュニケーションを取ることはできなかった。上下関係の厳しい野球部で先輩に対して敬語を使うことも難しかった。文化の違いに戸惑うこともあった。「日本の野球は監督が1と言ったら1しかやれない。台湾の野球は1といっても2に行っても大丈夫」。それでも、仲間の支えや本人の努力の甲斐あって次第にチームに溶け込むようになる。県大会決勝では惜しくも敗れるも、リリーフ投手として登板する。
そして、亜細亜大学へと飛び込む。大学でも日本語や試験に苦労することもある。そんな中で支えとなったのは尾道高校からの同級生である渡邊大翔学生コーチ。今でも日本語や難しい試験の問題を渡邊から教わることもある。
最後まで諦めないことは野球を通して学んだことの一つである。それは野球に限ったことではない。「テストでも何でも範囲をやりきるまで何回でも諦めたい、面倒だと思うことはある。でも、勉強はしないと単位は取れない」。最初は会話すらままならなかった尾道高校時代。全国トップレベルの選手が集い厳しい練習を亜細亜大学野球部時代。幾度の困難を乗り越えてきた。蘇璟には父親から教わった大切な言葉がある。それは「勝つ」という言葉。一般的に「勝つ」というと勝負に勝ということを想像させられる。しかし、それとは少し違う。「勝つとは試合に勝つことではなく、昨日より一歩でも前に進み、昨日よりうまくなる」。すなわち、自分に勝つことを意味する。ふたたび現れる困難にも打ち勝ち、さらに成長する。
写真提供:亜細亜大学野球部