大学野球における若手育成 第11回 明治大学・小島大地内野手(明大中野・2年)【前編】

※この記事は「大学野球総合版~2024年秋季リーグver~」に掲載された記事を修正・再加筆したものです。

 今は採点することができない。今季を10点満点で採点するならば何点になるかという問いに対する小島大地の答えである。1年生のころは出場機会は全くと言っていいほどなかった。2年生となり徐々にB戦などで出場する機会も与えられるようになった。試行錯誤の成果も少しずつ出始めた。しかし、まだまだだ。春のフレッシュトーナメントは代打の1打席にとどまり結果はショートゴロ。夏の若手主体のサマーリーグでも目立った成績は残せなかった。それでも今年はまだ半分しか終わっていない。秋季リーグ戦が終わればふたたびフレッシュトーナメントが待っている。オータムフレッシュリーグも待っている。「終わったときに結果を出して10点をつけられれば」と後半戦へと臨む。

 まだまだ満足行く結果は出ていない。それでも打撃は変わり始めた。練習試合ではホームランを放った。「自分の中で色々と試行錯誤をして結果が出た。長打を打ちたい打ちたいと思って下からすくうようなバッティングをしていたが、結果は出ていなかった。基礎に戻って上から叩くようにした。半信半疑だったが、取り入れると結果が出た」。場面も印象的だった。0-3で敗れ、打線の勢いもない状態での同点のスリーラン。高校の監督の教えがよみがえる。「4打数1安打の2割5分でも良いからランナー二・三塁のような場面で点の入るバッティングをすること」。理想はホームランで流れを変えること。次は上の舞台でそんな打撃を見せる。

 これまでの野球人生を振り返ってみると転機は小学生の頃にあった。小島は4年生のころその実力を買われて6年生のチームへと飛び級で参加した。しかし、そこでは打撃はからっきしだった。しかし、それが小島に火をつける。練習に熱が入る日々が続く。実力のある先輩とプレーすることで野球の楽しさに気づく。

 明大中野高校でのプレーを決めたのも東京六大学野球でプレーすることを意識してのことだった。もともと東京農業大学野球部で主務を務め、現在は同野球部で副部長を務めている父・小島尚希氏の影響で大学野球や社会人野球を観戦する機会も小さい頃からあった。「高校を選ぶときに、甲子園に行くことができる高校なのか、明治の付属校なのか迷っていた。父が大学野球に携わっていて木製バットの野球も面白いなと思っていた。頭の良い高校に行きたいなと思った」。2010年代の中盤の明治大学には後にプロの舞台でプレーすることとなる糸原健斗内野手(現・阪神タイガース)や髙山俊外野手(現・オイシックス新潟アルビレックス)といった有名選手が多く在籍していた。小島は「頭も良い野球も良いスター選手がいる六大学でやりたいなと思った」と述懐する。

 「思っていた高校野球とは違うギャップを感じた3年間だった」。中学時代は活躍することができた小島であったが、1年次からすぐに活躍することはできなかった。最初の2年間は怪我などにより公式戦に出場することは少なかった。そして、コロナ禍が続く。練習は2時間ほどに制限される。グラウンドでの活躍もままならない。野球の上手さでは勝てない。当時、主将を務めていた小島はそう感じたという。幸いにも当時の3年生の代には体格の優れた選手が多くいた。最も小さい選手でも174センチ、平均で178センチであった当時の選手は強豪校に打ち勝つべく工夫をこらした。ウェイトトレーニングを行う。ジムを契約する。一学年年下のエース・中村海斗(現・明治大学野球部1年)とともに戦った。4回戦で惜しくも敗れるも目標としていた戦いはできたと胸を張る。昔から「弱いチームを強くすることが好きだった」。戦いは次のステージへと続く。

後編へと続く

(写真提供:明治大学野球部)