※この記事は「スイッチヒッター~2025年春大学社会人野球総合版~」に掲載された記事を修正・再加筆したものです。筑波大学野球部の協力なくして記事の公開には至りませんでした。この場を借りて、改めて御礼を申し上げます。
決断と進歩、それは仲間に囲まれて
琵琶湖のほとりには江戸時代初期に井伊直継によって築城された彦根城がある。国宝に指定された天守と城を取り囲む見事な堀、美しい桜や黄葉は見る者を魅了してきた。筑波大学期待のルーキー、山田幹太は彦根市で生まれ育ち、高校は進学校の彦根東高校でプレーした。兄と父が彦根東高校のOBであったこと、後に慶大やトヨタ自動車などでプレーすることとなる増井翔太らの姿に感銘を受け、山田も彦根東高校へと進学する。1年次にはショートとしてプレーしていた山田に転機が訪れたのはその年の秋のことだった。いや、それは転機というよりも「怪我の功名」といったところであろうか。山田はスライディングで左足首を怪我をする。そして、ピッチャーへと専念することになるのである。「一年生のときにショートで出ていたときはそれなりにはできていたが、ちょっと上手いくらいであのままやっていても…」と振り返る。そして続ける。「ピッチャーの方が勝敗に関わる。その点では高校野球という区切りで見ると良い決断だった」。ピッチャーは自らのフォームによって結果が大きく変わる。一歩でバッターは相手ピッチャーとの対応が大事である。怪我をしていてもピッチャーの勉強をすることができる。リハビリ期間にピッチャーとしての技術を学んだ。好都合なことに復帰後には球速はいくぶん向上していた。
それでも、野手を完全に諦めていたわけではなかった。「最初は野手もワンちゃんあるかなとバットも2本くらい持ってきた。それでも、監督さんの評価を又聞きしていると、ピッチャーかなと思うようになった」。金属バットから木製バットへと変化することも野手を断念する一つの理由となった。入寮後、しばらくたった4月末には完全にピッチャーに専念することを決意する。持参した2本のバットは仲の良い一戸貴仁(弘前・2年)に譲った。
仲間と過ごす日々は何よりも楽しいものだ。「大学生といってもどこか幼い感じを持っている。受験とかをしていると制限された部分が多く、どこかで勉強をしないと、帰らないととなることが多い。大学生になるといつまでも一緒にいられる。自由にできて楽しい」。先輩からも優しく接された。「大学の寮とかは厳しいと聞くので、ビビりながら入った。でも、お風呂とか食卓とかめちゃくちゃ優しくて、2日3日でああカモだなと思った」。そう冗談交じりに語る山田の日々は間違いなく充実している。周囲には努力の虫もいる。向かいの部屋の清塚成(前橋育英・2年)の姿はそう思わさせられる存在である。向かいの部屋にいると言っても、清塚が向かいの部屋にいることはほとんどない。ほとんどの時間で練習に励んでいるからである。「授業がないと練習しすぎて体がもたん」とつぶやくこともある清塚からは空室の前を通り過ぎるたびに良い刺激を受けている。
1年次からAチームに帯同した山田であったが、一筋縄にはいかなかった。ベンチに入れはしたものの、リーグ戦で投げることができるレベルではない。簡単には通用しない。そんな山田の貴重な実戦経験となったのが若手主体の大会だった。「サマーリーグやオータムフレッシュリーグはAチームのレベルと比べると、打線は落ちる。僕もそんなに力むことなく本来のピッチングができ、低めやコースに決められて良い結果が残せた。あのままAチームで中継ぎをやっていても、打たれて力んでという良くない方向に行っていた、サマーリーグなどで、ある程度名門から出てきた選手と戦って抑えられてというのが自分の形を再認識できて、自信にもなった」。指導者などからは2年次からリーグ戦の舞台を踏むことができる選手は上級生でも活躍できると告げられる。来年、そして再来年飛躍するために、今年は重要な一年となる。どんな舞台であろうと強気にマウンドに上がる。
<今年度の活躍>
2025年春季リーグ 7試合 1勝0敗 15回2/3 奪三振11 防御率1.15
2025年秋季リーグ 7試合3勝3敗38回2/3 奪三振28 防御率3.26(10月19日終了時点)
<プロフィール>
2006年2月12日、滋賀県彦根市生まれ。佐和山スポーツ少年団、彦根市立東中でプレー。彦根東高校では二刀流として注目を集める。大学以降は投手に専念。筑波大学では1年次からベンチ入り。若手主体の大会であるサマーリーグなどでは先発も経験。趣味は麻雀。仲の良い選手は友廣陸、土屋マックス清文など。
