日産自動車・石毛大地主将 ~曇りのち晴れ、所により雨~

※この記事は「大学野球総合版~2024年秋季リーグver.~」の企画「首都大学野球連盟特集」のOB企画の一環として茨城日産野球部の協力を得て、実施した記事を加筆・編集したものです。関係者にこの場を借りて改めて御礼申し上げます。

 「最近やっと一台売れたんです」。打線のリードオフマンは自動車の販売員というもう一つの顔を持つ。未知の世界で奮闘している。「自動車を売る仕事なので覚えることも多く難しい。扱う商品も高額なので苦戦している。もともと車に知識がある方ではなかったので、覚えることから始まった。自分は中古車の販売に従事しているので、入ってくるのは日産の車だけではない。注文書の書き方や車の構造を覚えながら野球もやらなくていけないのは大変」。練習環境は決して充実しているとはいえない。グラウンドはない。実戦練習をする機会は少ない。週の大半は社業に従事しており、仕事が終わるのは午後7時ごろ。それから野球の練習を始める。普段は2〜3時間ほど。体がきつい日は30分〜1時間ほど。少ない時間で大学と同じように取り組んでいては結果を出すことはできない。毎日数本でも強く振る。強く走る。強く投げる。答えを探し、日々もがいている。

 あれがあったから今でも野球を続けている。2019年7月25日、県立相模原高校は神奈川の雄・横浜高校を撃破した。今となってはプロ野球の舞台でプレーすることとなる及川雅貴や度会隆輝を擁した横浜高校に勝利したこの試合は後に幾度となく語られることとなる。しかし、当の石毛というと次戦の東海大相模高校との試合で敗れたのちに満足感を得ていた。大学では野球を続けるつもりはなかった。

 石毛のその思いを変えさせたのは井口史哉という人物がいたからだ。県立相模原高校出身で筑波大学でプレーした井口は人格者として知られていた。石毛は「井口さんの人間性に触れて、自分も結果は出なくても井口さんのように人間的に成長できるなと感じた」と振り返る。もともと将来はスポーツに関わる仕事に就きたいと思っていた。大学でも体育に関することを学びたい。そう考える石毛にとって筑波大学体育専門学群は格好の進学先だった。

得意としてきたセーフティバント

 しかし、その決断は最初は後悔へと変わった。はじめの2年間は結果が出ることはなかった。野球部を辞めたいと思う日々が毎日のように続いた。大学入試では筑波大学ともう一つ別の私立大学に合格していた。もう一つ別の私立大学へ進学していれば。そんなことを考えることすらあった。筑波大学では2年生の秋にスタッフミーティングが行われ、選手のうち一定数がスタッフへと転向する。2年の春のころはマネージャーへと転向しようと考えていた。思い描く活躍とはほど遠かった。

 転機が訪れたのは2年の夏のころ。石毛はAチームに抜擢される。後に聞くところによるとそれはリーグ戦への起用を期待しての抜擢ではなく、来年以降への起用を期待してのものだった。その時は結果は出なかった。それでも、石毛はこれがラストチャンスと奮闘し始める。冬の時期には出会いもあった。外部コーチを務めていた東條航やパフォーマンスコーチとして知られる木村匠汰とともに二人三脚で打撃の向上につとめた。そして、3年春のリーグ戦ではついに結果を出す。当初は代走要員としてのベンチ入りで、開幕戦では一塁コーチャーを務めた。しかし、徐々に安打を積み重ね、最後には首位打者を獲得していた。大学日本代表候補にも選出された。あの日野球部を辞めようと考えていた一人の野球部員は気づけば首都大学野球連盟を代表する打者へと成長していた。

 それから一年の月日が経った。石毛はラストイヤーを迎えた。当時の筑波大学野球部は力のある代だと首脳陣からも評価されていた。実際に夏のオープン戦では日本製鉄鹿島やENEOSといった強豪社会人に次々と勝利した。いわば負けないチームだった。ここ数年では最高のチーム状態で秋季リーグへと挑んだ。

 しかし、現実は理想ほどうまくいかないこともある。オープン戦でよく打っていた打者はリーグ戦になると当たりが止まる。思ったような結果を出すことは難しい。2023年10月21日、筑波大学は桜美林大学に敗れ、日本体育大学の3連覇を許す結果となる。首都大学野球連盟2位で進出した関東大学野球選手権大会でも2回戦で上武大学に激闘の末に敗れ、全国大会への進出はかなわなかった。

 印象に残っている打席がある。敗れた上武大学との試合の打席だ。筑波大は1点リードの9回に2点を勝ち越され、裏の攻撃へと迎えた。2死二塁で打席が石毛に回ってくる。結果はフォアボール。負けたら終わりの場面で当然プレッシャーを感じていた。それでも四球を選んだのはそれまでの自信があったから。四球という結果も石毛らしい。欲を出さずに後ろにつないだのだから。

 人生が変わる大学4年間となった。将来の進路は一般就職。ここでも野球を続けることは考えていなかった。「高3に戻れるならば、ちゃんとやれよという」。その先には実りのある大学野球生活が待っているから。「筑波大学野球部は素晴らしい組織だった。メンバー外の人も役割があって、その役割をまっとうできる、妥協せずに全員で一つに向かっていける」。多くの仲間に恵まれた。

 中川隼。石毛の一つ上の世代で主務を務めた。石毛が下級生のころに苦しんでいたころには、自らと似たような境遇を持つ中川にはよく助けられた。

 永戸涼世。一つ下の世代で現在は主将を務めている。昨年は1番・石毛、2番・永戸の打順で打線を牽引した。結果が出ない時期もあった。クリーンナップが好調だったことにより川村卓監督から「1、2番が、1、2番が」と全体の前で指摘されることもあった。それでも乗り越えられたのはともに努力したからだ。

 主将として苦しみながらもチームを引っ張る永戸涼世

 川上拓巳。同じ俊足好打の外野手は石毛のことをよく慕う。印象を問うと「愛は感じます」と笑顔で返す。そして「川上は野球を続けると言っていましたか」と問い返す。後輩の活躍はいつまでも励みになる。

石毛に大学入学前から憧れた川上拓巳

 卒業後は「筑波ロス」を感じることもある。全国各地から筑波の地に集まり多くの時間を過ごす大学生活はかけがえのないものだった。オイシックス新潟アルビレックスBCでプレーする同期の山田拓朗とはよく連絡を取る。その時必ず話すことは筑波が楽しかったという話。離れてみてそのありがたみがよく分かった。

 今では茨城日産でリードオフマンとして活躍する石毛であるが、進路は思うようには決まらなかった。企業チームから誘いがやってきたのは4年の春季リーグが始まる頃。その誘いを受け、就職活動はせず、野球を継続する決断をした。しかし、その企業からは「やっぱりとれない」と後に告げられる。就活浪人をすべきか野球を続けるべきか模索した。宙ぶらりんの状態になった。野球は続けたいが、そう言ってはいられない。つらい心境は想像に難くない。

 選んだ進路先は筑波大学野球部ともつながりのあった茨城日産硬式野球部。正式に決定したのは今年の2月のこと。面接を行ったのはその上旬。チームに合流することとなったのは3月。先の見えない状況からようやく抜け出した。

 茨城日産硬式野球部は2021年から活動を開始した新興の野球部だ。日立製作所や日本製鉄鹿島、SUBARUといった強豪社会人チームがひしめく北関東地区に所属している。これまで都市対抗野球大会や日本選手権大会といった全国大会への出場はない。

走攻守でチームに貢献する

 今春、茨城日産は本大会出場をあと一歩まで迫る。初戦のエイジェック戦には敗れたものの、裏街道では太田球友硬式野球倶楽部、日本製鉄鹿島、茨城トヨペットを次々と破り、決勝までコマを進める。決勝の相手はSUBARU。試合が行われるのは太田市運動公園野球場。相手チームのホームとも言える球場だ。石毛は当時を振り返る。「緊張はなかった。正直ここまで来れるとは思っていなかった。アウェイでほとんどがSUBARUの観客。逆に吹っ切れてやってやるしかないなと思った。最後だし、楽しむしかないなと思った」。

 社会人野球の舞台で石毛は変わった。そう語るのは後輩の川上。「もともと口数が多いタイプではない。社会人野球を見ていたら感情を剥き出しにしていてそういう一面があるのだと思った」。石毛自身も変化を感じていた。「大学時代は淡々と気持ちのブレを少なくやっていた。社会人は自然と感情が湧き出るようになった。熱くなれるのが良いなと思った」。

 第二代表決定戦は3-3の同点のままタイブレークへともつれ込む。表の攻撃で茨城日産は1点を勝ち越す。しかし、裏の攻撃で押し出し四球で同点に追いつかれる。そして、満塁の場面でバッターは4番の外山優希。放った打球は高くはずみ、一塁方向へと転がっていく。ファーストが捕球をしたころには三塁ランナーはすでにホームへと帰っていた。サヨナラ負け。センターを守っていた石毛はその場で座り込む。「頭が真っ白になって、何も考えられなかった。高いバウンドは今でも覚えている」。大舞台への切符はあと少しでつかみとることができなかった。

 勝負には勝つこともある。負けることもある。人生には晴れの日もある。曇りの日もある。公立の進学校が強豪校を破ることもある。力の差を見せつけられることもある。思うように結果が出せないこともある。それでも、仲間とともに試練を乗り越えることもある。自らの力以上の結果が出せることもある。限界を知る日もある。全てが上手くいくこともある。先の見えない暗闇の中を歩く日もある。

 「野球は筋書きのないドラマ」。かつての名選手はそういった。その結果を知る者は誰一人としていない。それは野球だけではない、我々の人生そのものだ。紆余曲折がありながらも時は流れて行く。そのことを石毛大地はよく教えてくれる。石毛がこの先どこでどんな活躍をするかは分からない。しかし、だからこそ我々は石毛に魅せられ、野球に魅せられ、人生に魅せられる。

未来は分からない、だからこそ面白い

編集部注

2025年度からは16年ぶりに復活した日産自動車野球部でプレーする。唯一の社会人二年目の選手としてキャプテンを務める。

(写真は本人提供、永戸・川上両氏の写真は筑波大学野球部提供)