準硬式野球という世界
4月に入ると週末には硬式の東京六大学野球が神宮球場が始まる。そして、同じ頃に東京六大学準硬式野球も始まる。リーグを構成する六校は同じだ。相手校に対して2勝をあげると勝ち点を得ることができるシステムも同じだ。しかし、ルールは少し違う。ボールは硬式野球と軟式野球の間に位置づけられるものを使う。金属バットの使用も認められている。しかし、それ以外は硬式野球と極めて近い。
選手の事情も違う。硬式野球の上位リーグでは甲子園出場者や高校時代に名を馳せた選手の名が並ぶ。準硬式野球では各校によって事情が違う。明治大学や法政大学では高校時代の実績の条件を設けてセレクションを行っている。一方で慶應義塾大学などのように甲子園出場者がほとんど在籍しない野球部もある。付属校の慶應義塾高校は2023年の夏に甲子園を制するほどの強豪校だが、準硬式野球部の慶應義塾高校出身者は高校時代にはベンチを外れていた選手も多い。
高校野球と大学準硬式野球
高校時代と異なる環境を求めて大学の準硬式野球部に入部する選手も多い。昨年まで慶應義塾大学準硬式野球部に4年間在籍した髙尾承太郎もその一人だ。彼が高校時代を過ごした慶應志木高校は慶應義塾高校とは違う。長髪の部員も多い慶應義塾高とは裏腹に慶應志木高の部員は全員が坊主だ。伝統や精神論を重んじる。根性練と呼ばれる部員の疲労を目的とさせているかのような練習もあった。
プレーヤーとして野球に携わりたい。髙尾はそんな思いを持ち、準硬の舞台に足を踏み入れる。先にも述べたように慶應にはいわゆる野球エリートは決して多くない。多くの練習を重ねて野球エリートに勝つ。週6回の練習はそのあらわれだ。朝ノックは7時から始まる。始発に乗って練習までやってくる部員もいる。慶應準硬式野球部は伝統的な強豪チームではない。優勝もそこまで多くはない。しかし、髙尾が在籍した4年間に8度のリーグ戦を4回も制した。

そこには異なる文化があった
髙島泰都(オリックス・バファローズ)のように大学では明治大学準硬式野球部でプレーし、社会人強豪の王子硬式野球部に進み、プロ野球の舞台で活躍する選手も一部にはいる。しかし、そんな選手は例外だ。ほとんどの選手は大学で競技は引退する。先のことを考えてはいない。試合には無理にでも出ようとする。投手の分業制がすっかり定着したこの時代にエースは3連投でも4連投でも平気でする。高校時代に硬式でプレーした投手の中には準硬式に定着できず、肩や肘を壊す選手もいる。痛み止めの「アドビル」を飲んで試合に出場する選手もいる。
準硬式には他にもいくつかの違いがある。守備が難しい。それは野球用語で言うならば「守備職人キャラ」でやってきた髙尾だからこそ分かることだ。軟式、準硬式、硬式の中でもっとも難しいのは準硬式であると断言する。硬式の人工芝での守備よりも難しい。準硬式のボールは不規則に打球が反応する。それに加えてバットは金属だ。金属バットが低反発となる前は今以上に難しかったという。数試合に一度はエラーをした。顔面に打球があたり、鼻も二度折った。
選手の考え方も違う。準硬式に対してコンプレックスを抱く部員もいる。高尾はそう指摘する。「どうせ俺らは準硬だから」。そんな言葉がどこからか聞こえてくることもある。本気でやっているとは思われていないのだろう。どこか自らを卑下する部員もいた。慶應義塾大学準硬式野球部はトップチームと育成チームに分かれている。要するに1軍と2軍だ。「育成にいるつらさは誰にも分からない。自分は長いこと育成にいた。試合に出たいから、準硬に入ったのに。準硬にいることに引け目があった。レベルを下げた、しかも活躍できない。トップチームに入れないことと二重のつらさがあった」。
トップと育成の気持ちが分かる
「野球人生はほぼ栄光はない」。そう語る髙尾の大学1年目。春は明治にコールド負けを喫するほど苦戦を強いられた慶應であるが、夏の練習の成果か秋にはリーグ優勝を飾る。しかし、高尾に当事者意識はなかった。ただレギュラーの選手を見守るだけだった。2年春にはトップチームに上がる。サードを守り、イップス気味になることもあった。それでも、ベンチに守備要因として入っていた先輩の代わりにベンチに入った。しかし、交代要因としては他の選手が優先。出場機会は当然のようになかった。出番はシートノックで終わった。その年の夏合宿ではコロナに感染した。育成に落ちた。秋リーグは育成チームで過ごした。ベンチ入りもできなかった。チームは優勝した。自分のいないところで。3年春、フリーバッティングで110キロのボールが左腕にあたり骨折する。手術をした。3カ月ほど野球ができなかった。春リーグ、チームはまた優勝する。優勝の場面はふたたびスタンドで見守った。春リーグの優勝校には全日本大学準硬式野球選手権大会への出場権が与えられる。怪我が治ったのは全国大会のメンバー選考が終わったころだった。チームとともに関西に一週間ほど滞在した。試合に出ることはない。観光だった。そして、最終学年となる。高尾はショートのレギュラーとして期待されていた。しかし、精神的な弱さがもろに出る。大事な場面でエラーをした。レギュラーになったのは2個下の後輩だった。ベンチを外れた。チームは5位に終わった。
最上級生として内野手チーフを任されていた。チーフは育成にいた。面目がなかった。しかし、野球人生の最後は暗いままには終わらなかった。夏合宿からはトップチームでプレーするようになる。秋リーグは全試合でベンチ入りする。レギュラーになることはできなかった。しかし、試合には6度出場した。代打で5度も試合に出た。そして、ショートの守備にもついた。チームは11勝3敗でリーグ優勝を果たす。4度目の優勝。髙尾はやっとその場所にいた。
部員は多士済々
準硬式には夢がある。髙尾はそう言った。準硬式には全日本大学東西対抗日本一決定戦と呼ばれる試合がある。舞台は甲子園。基準をクリアした選ばれた選手のみがプレーできる。「高校は軟式で大学は準硬式の人もいる。六大学で甲子園に出るような法政、明治の選手から三振を取る。硬式なんて無理だと思っていてもジャイアントキリングがある。そして、甲子園の土を踏む」。
彼らは野球だけではない。アルバイトをしながら野球の練習を続ける部員も多い。異なる夢を追いかけ続ける部員もいる。同期には弁護士を目指していた選手もいた。3年次に飛び級をして、弁護士を目指す夢を優先した。そして、スタッフに転向した。医学部に通いながらキャッチャーマスクを被る選手もいる。高校ではプロ注目選手となりながら、二浪を経て慶應義塾大学に合格し、準硬式でプレーする選手もいる。体はボロボロだった。しかし、天才だった。一つの上の主将。一番早く練習に来る。そして、一番遅く帰る。チームの汚い部分も背負った。人間性の高さを感じた。別の一つ上の先輩。肩が強かった。けれども、メンタルが弱かった。大事なところでエラーをした。オープン戦でエラーをすると次の日には練習に行きたくないというのが人間である。しかし、彼は次の日にも朝ノックにいた。けろっとした顔をして。準硬には様々な顔が見える。

準硬式の未来を見て
「準硬には興味を持てるような選手もいる」。髙尾は筆者が雑誌の企画の話題を持ちかけた時にそう答えた。少々控え目な言い回しである。しかし、彼らには間違いなく物語がある。そして、その物語は今年も続いている。4年間を終えるとその物語は一度幕を閉じ、別の場所で夢を追う。髙尾承太郎もその一人だ。
「野球はもうおなかいっぱい」。髙尾は後輩の結果はあまり追いかけられていない。取材が行われた2025年4月27日の日曜日、慶應は明治に敗れ、勝ち点を落とした。3-4の惜敗だった。8回に勝ち越されたのか。スコアに目を落とした。野球からは離れた。でも、結果には少し悔しそうである。
去年の秋には引退にあたってラストブログを書いた。つけたタイトルは「みんなが、いた」。試合に出られない時期。予期せぬ怪我。育成チームの苦しみも味わった。それでも周りには仲間がいた。野球部のインスタグラムにはラストブログの「予告動画」が公開されている。ナレーションは就職先の同期に読んでもらった。見てみればきっと髙尾承太郎のことが気になる。そして、準硬式がちょっとだけ気になる。
(写真は全て本人提供)
<次回予告>第2回は早稲田大学理工硬式野球部の選手の記事を配信予定。
企画「勇往邁進」について
世の中にはたくさんの野球人がいる。それはプレーヤーかもしれない。ファンかもしれない。スタッフかもしれない。彼らはどのように野球と関係を持ち、どのように野球に向き合ったのだろうか。過去にどのように野球と関わり、現在にどのように野球と関わり、未来にどのように野球と関わるのか。それを問いかけることで野球人と文化としての野球を明らかにするためのコラムである。
<筆者からのコメント>
「勇往邁進」の連載にあたって取材に協力いただける方を探しています。現在は野球から離れている方、硬式野球部以外でプレーされている方、多様なキャリアの方を探しています。ご協力いただける方がいましたら以下のメールアドレスまたはSNSのDMなどからご連絡ください。
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