※本記事は雑誌「スイッチヒッター2025年総括号」の企画「社会人野球ルーキーたちの群像」に掲載されたNTT東日本・石井巧内野手『君は社会人になったか』を加筆・修正したものです。取材に協力いただいたNTT東日本野球部、石井巧内野手、写真をご提供いただいたぎゃふんさん(X:@ys51_T)に御礼を申し上げる次第である。
活躍の是非

石井巧は社会人野球1年目の今年、活躍したのだろうか。チームが出場した二大大会と呼ばれる都市対抗野球大会と全日本社会人野球選手権大会ではいずれもショートでスタメン出場を果たした。全体を通した打率は4割を超える。JABA東京都野球連盟からは新人賞の表彰も受けた。上級生のころはなかなか出場機会に恵まれなかった大学時代を考えると大きな飛躍にも見える。しかし、活躍については極めて冷静だ。「社会人はどんな世界か分からず、ついていけるか不安しかなかった。想像通りすごくレベルが高くて奥が深かった。それでも、ずっとスタメンでレギュラーとして出させてもらった。NTT東日本のレベルは高い。対戦する投手のレベルも高い。あっという間に一年間が終わってしまった」。大学野球と社会人野球は同じ競技であってもレベルは大きく違う。投手の球質、守備時の打球の速度、走塁でのバッテリーとのかけひき。頭を使って戦わなくては通用しない世界だ。「結果を残せた感覚はない。しがみついて食らいついてやってきた」。初めての舞台で初めての相手に何とかついていこうとしたことが好結果につながった。それでも、久しぶりのホームランは嬉しいものだった。JABA静岡大会ではトヨタ自動車との試合でホームラン。大学時代は一本もホームランを放つことはかなわなかったため、嬉しさも増した。「ホームランはいつでも嬉しい。大学時代のホームランは練習試合だったので、お客さんは誰もいない。ホームランを打っても、シーンとなって、ぽとっと落ちる。お客さんが欲しかったです」。神宮で打てなかったからこそ社会人の味は違う。そして謙虚に振り返る。「まぐれなホームランが多い。狙ってホームランを打ったことはないし、これからもないとは思う。調子に乗っちゃいそうだけれど、抑えている」。公式戦で放ったホームランは3本を数えた。

石井巧の兄は北海道日本ハムファイターズでプレーする石井一成である。7つ年の離れた兄である。「兄のことは尊敬してる。兄を見て野球を始めた。7個離れているので、ちょっとイメージがつきづらかった。本当にすごいなと見ていて思っていた。あまり兄という実感はなかった。プロの世界でプレーしているのは不思議な感じだった。憧れて自分もプロを目指すようになった」。7つも年が離れていると喧嘩などはないのではないか。兄が高校生、弟が小学生のころ、一度喧嘩をしたことがある。サッカーのゲームをプレーしていたときの出来事である。「集中して絶対勝ってやろうと思って、勝って、『よっしゃー。ざまーみろ』と言ったら『調子乗んなよ』と言われて怒られた」。この頃から勝負には熱くなる。
野球少年というと豪快にバットを振り回したり、速いボールを投げることに熱中するというイメージは多少なりともある。しかし、石井の場合少し違う。「野球は最初から好きだった。その中でも、自分は守備が好きだった。ノックを受けるのが好きだった。キャッチボールや走ることも好き」。守備が好きだったのは調子に乗っていたからかもしれない。石井は回想する。年長から特別に体験という形でクラブチームの練習に参加していた。「ノックを受けているときに『上手だね』と褒められ、勘違いしちゃった。守備が上手いと思っていたのは小学生のころ。自分上手いな、周り下手だなと思っていた」。しかし、そう思っていたのも小学生のころまでである。中学、高校とレベルが上がっていくごとに現実に気づかされる。
高校は兄と同じ、作新学院高校へと進学する。「高校では甲子園しか考えていなかった。今思えばたくさん怒られた。色んなところで。まずいこともした。キャプテンだったので代表で怒られた」。そして、主将として迎えた夏はそれからの野球人生で何度も経験することとなる緊張の一つの大きな山場であった。当時、作新学院高は栃木県大会を8連覇していた。「連覇を閉ざすわけにはいかなかった。一生言われるじゃないですか。連覇止めた代のキャプテンと」。勢いそのまま、甲子園に出場し、石井はホームランを放つ。そして、その動画をのちに何度も見返すこととなる。しかし、それはまだ先のことである。
レベルの高い選手に囲まれて

2020年、中央大学が巨人2軍相手に20-7と大勝をおさめたことは大きな話題となった。しかし、そのメンバーを見れば結果は納得できる。五十幡亮汰(日本ハム)、森下翔太(阪神)、牧秀悟(DeNA)、古賀悠斗(西武)、他にも社会人野球の舞台で活躍する選手が多く名を連ねていた。石井が中央大学に入学したのも同じ2020年である。「大学は高校とはまた違った雰囲気だった。簡単に出られるところではないな。入るところ間違っちゃったかな」。そう思わされるほど周囲のレベルは高かった。特に印象に残っているのは五十幡。「ベースランニングでは塁間を三歩くらいで行っているような感覚だった」。今振り返ると、当時の石井は幼い。「ベストナインを取りたいと調子乗って言っていました。とりあえず言っとこうと。聞かれたら言ってました」。1年秋から試合には出場するものの、なかなか結果は残らない。「大学ではずっと打てなかった。今考えると、勉強不足やったのかな。何してたんだろうという感じです。練習はちゃんとしていた。でも、柔軟な考え方ができなかった。自分の考え方を貫きすぎたのもあった。それかただ単に練習が足らなかっただけかもしれない」。

3年次には公式戦で20本近くのヒットを放った。しかし、覚えているのは入れ替え戦のヒット一本のみ。中央大学野球部の所属する東都大学野球連盟にはそれぞれのカテゴリーの間で入れ替え戦が年2回行われる。すなわち、1部の最下位校は2部の優勝校と対戦する。大学野球で最も過酷な戦いの一つとも言われている。それも野球人生の緊張のピークであった。「入れ替え戦は野球をやっている気がしなかった。初戦から緊張した。一個も落とせない試合が続く。普通の試合とは違う雰囲気で負けたら2部かという気持ちもありながら怖かった」。東洋大との入れ替え戦。初戦を4-8でいきなり落とす。次の試合は13-7で大勝。3回戦、中央大は9回裏を1点ビハインドで迎えていた。中前祐也(三菱重工East)、森下のチャンスで無死一・二塁のチャンスをつくると、北村恵吾(ヤクルト)のバントの間に相手のミスが絡み、1点を返す。そして、石井の打席を迎える。「3年生のときに打ったヒットはあれしか覚えていない。それくらい悩んでいた。この場面で自分に回ってくるのだと不思議だった。ボールくさい球だったが、食らいつけた」。試合に決着がつき、敗れた東洋大の選手が崩れ落ちる。そして、一塁ベースを回った石井も同じように崩れ落ちていた。
大学では何を成し遂げたのか

「4年間、何一つといっていいほどできなかった。バッティングもチームの結果も出なかった。上級生になって、出れない時期も続いた」。バッティングで結果が出ないときはかつて甲子園でホームランを打ったあの映像を見返した。「勘違いしたいときに動画見て、浸っていた。めちゃくちゃ調子悪くて絶対打てない時、その時に動画を見ていた。このくらい飛ばしたいな、大学時代は打てなさすぎて何度もみていた。何でこんな打球飛ばせたんだろう。何で今こんなに打てないんだろ。逆に落ち込んでました」。そう苦笑する。
上級生になると本職以外のポジションを守ることも増えた。もともとショートにはこだわりがあった。「ショートは自分もカッコいいと思う。中学時代にショートだけ遊撃手『遊』とかく。身のこなしが大事なポジションなんだよと言われた」。守備が上手いと称賛されてから10年以上いや15年は経つだろうか。石井はリーグ戦でファーストを守っていた。慣れないポジションに体が固まった。「副キャプテンだったのでチームのことも考えて、出られればどこでも良かった…」。それでも「本音は悔しかった」。それはもちろんそうだろう。「4年生は打てなかったな。それで出たり出なかったりが始まって、やばいなと思った。手ごたえもなかった。何をしても上手くいかないなという時期もあった。良い思い出はない。練習不足だった。練習はしていたつもりだったが仕方が間違っていたのか。色んな人に話を聞いておけば良かったのか」。大学4年間を一言で表すのであれば何になるか。「結果出ず」。そう答える選手は珍しい。しかし、石井にとっては確かにそんな言葉通りの4年間だった。「何してたんだろうと今考えると思う」。最後にはプロ志望届も提出した。しかし、結果は指名漏れ。「指名される確率はゼロに近いという感覚は自分でも分かっていた。指名されるイメージがなかった。当たり前の結果だった。(全ての指名が終了して)終わっちゃったなと思った」。

君はプロ野球の舞台を踏めるのか
悔しい結果に終わった大学野球。しかし、社会人野球の練習は次の年の1月に早くも始まる。そこで、打撃コーチの喜納淳弥からアドバイスを受ける。「『バッティングは下半身が大事。だけれども上半身をやわらかく使うのも大事。あとはバットを長く使えるかをこれからは大事にしていきたいね』。そのアドバイスが今思うと良かったのかな」。助言を受けながら自らのバッティングフォームを作り直していく。微調整とトレーニングを繰り返しながら実戦へと向かっていく。

「一年間、ずーっと緊張してました」。負けられない都市対抗予選、東京ドームの都市対抗、京セラドームの日本選手権。石井は大舞台で着実に経験を積んだ。そして、結果を残した。もっとも、本人に言わせるならば結果は残していないが。
社会人野球でプロ野球への思いはさらに強くなった。石井が身にまとう背番号は日本ハムで活躍する上川畑大吾がかつて背負った背番号6。夢の舞台、憧れの舞台。そう多くの選手が語るプロ野球であるが、身近にプロ野球選手がいる石井にとっては少し違う。「ぼけーっとテレビで試合を見るイメージと兄から聞く話だと見方が変わる。テレビだったら打って走って投げているだけだが、実際にはこういうボールをイメージしながら打っているというように教えてもらうと、考えに考えてやっているんだなと思う」。
来年の今頃はどんな活躍をしているのだろうか。「一年目はがむしゃらに、二年目は今年の経験を踏まえて守備でもバッティングでも走塁でも一個上のランクで戦えるようにしたい。どうにか粘って、アウトのなり方にもこだわっていきたい」。一年後の理想はプロに指名されていること。しかし、それが難しいこともよく分かっている。お調子者の石井巧はもういない。プロの舞台を踏むことができるのか。そう問いかける。「生意気なことを言っても無理ですよ、今のままでは。甘くないのは知っているので、この時間だけです、生意気なこと言ってるのは。良い選手でもかすりもしないこともある。その運もチーム状況もある。簡単に入れるところではない」。22歳の大人の一言である。社会人野球ではルーキー。けれども、野球人としてはもう大人である。
<編集部注>
本稿に関する取材は社会人1年目の2024年11月に行われた。2年目の2025年も安定した成績を残すと、同年のドラフト会議にて東京ヤクルトスワローズから6位指名を受けた。背番号は「38」。5月8日に一軍登録されると、同日の広島戦(マツダスタジアム)で6番ショートで先発出場。5月13日の阪神戦(神宮)で7番ショートで先発出場すると、8回裏に桐敷拓馬投手から同点打となるセンターへのタイムリーツーベースヒットを放ち、プロ初安打となった。本稿はプロ野球選手としての歩みを迎えるにあたって、幼少期から社会人時代までの軌跡を振り返るものである。取材に協力してくださったNTT東日本野球部、石井巧選手、写真をご提供いただいたぎゃふんさん(X:@ys51_T)にこの場を借りて、改めて御礼を申し上げる次第である。(編集部)
