※当該記事は2025年1月「スイッチヒッター2025年総括ver」における企画「大学4年間を振り返って」における青山学院大学野球部・佐々木泰主将の記事を加筆・修正したものです。2024年12月に行われた取材をもとに執筆された記事ですが、広島東洋カープに入団した佐々木内野手がサポートメンバーとして選出されたラグザス侍ジャパンシリーズ2026の中日戦でホームランを放ったことを契機に、過去記事として公開する運びとなりました。取材に協力いただいた青山学院大学野球部、そして佐々木選手本人にこの場を借りて御礼を申し上げます。(著者)
あの日見た夢は、今日現実になった
主将の過去・現在・未来
昨年、青山学院大学野球部主将を務めた中島大輔(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)の代には練習方法から寮生活まで多くのことが変化した。しかし、中島は次年度のチーム佐々木について自らの代と同じようなスタイルは求めなかった。そして、かつてこんなことを語った。「メンバーが変われば色も変わると良いなと思う」。同じことを佐々木泰も中島から直接告げられていた。「大輔さんにも言われた。前のチームがどうとかではなくて、お前のチームをつくっていけば良い」。

そして、でき上ったチームはどんなチームだったのだろうか。まず、青学は強かった。誰もがそう感じる一年であった。中央大学とのデッドヒートを制し、春季リーグは優勝。全日本大学野球選手権では勢いに乗る東京六大学の覇者・早稲田大学野球部を破り、二年連続で優勝。秋季リーグは終盤に國學院大学の猛追を受けながらも最後には突き放し、リーグ四連覇。そして、明治神宮野球大会では決勝で創価大学を破り、2008年の東洋大以来の「四冠」を達成した。昨年も「三冠」までは達成したものの、最後の神宮大会決勝では慶應義塾大学野球部に敗れ、惜しくも届かなかった。後輩たちに託された思いが今秋は実った。
青山学院大学野球部の部員数は極めて少ない。選手は一学年8~10人といった程度で全体でも40人ほどである。佐々木の代の4年生の選手は8人。少ないからこそ常に一緒に行動するほど仲の良い学年であった。4年生となると卒業後に野球を継続する者と一般就職する者とで行動が変わることがある。しかし、そんなことはなかった。「(寮生活は)自分にとっても大切な時間だった。このメンバーだったからこそ四冠を勝ち取ることができた。変なやつはいなかった。みんながすごく真っすぐで自分の思いをしっかり伝えることができたので、過ごしやすかった」。 県立岐阜商業高校は下宿であったため、寮生活は大学で初めてだったという佐々木。仲間と過ごす当たり前の日々が何よりも思い出に残る。「みんなと生活していく中でチームメイトの内面を知ることができた。その中でやる野球は違う楽しさがあった。このチームで勝ちたいという思いは強くなった。4年生はみんな個性的だったと思う」。寮生活では下級生のころから小さなイベントの連続だった。「同部屋の児玉(児玉悠紀=日大三・4年)がでかいおならをした。寮生活はこれが普通なんやと思った。おならとかしたら普通はえーってなる。でも、めちゃくちゃ真顔でスマホを触っていた。おもろいなと思った」。これまでは野球をプレーしながらもそれ以外では家族と生活していた。大学4年間はそれ以外も時間も他の部員と過ごしていた。「彼らは家族みたいなもんですよね。彼らと野球ができたのは楽しかった。練習終わりに一緒にお風呂に入る。お風呂でふざけあっている時間は幸せだった」。全員戦力。監督からも告げられたそんなフレーズが胸の内にはあった。一人ひとりがチームを勝たせたいという思いを持つこと。それをより浸透させることができたこと。それがチーム佐々木であった。高校時代と比較してもキャプテンとしての役割は変わった。「高校ではどちらかというと監督の意図を部員にしっかり伝える役割だった。練習も厳しく、自分自身も精一杯でチームに目を向けることはできなかった。大学のキャプテンはやりやすかった。これから野球を続ける者、続けない者がばらばらで、それをどうにか四冠に向けてやってきた。どちらの者であっても頑張ってくれたのでみんなに感謝している。来年からは藤原夏暉(大阪桐蔭・4年)がキャプテンとなる。「夏暉にも前の4年生がこうだったからこうするというのではなく、自分が思うチーム像を掲げてやっていってほしいと思う」。

プロ野球の現在・過去・未来
今から14年ほど前のことである。プロ野球の日本シリーズは佳境を迎えていた。セ・リーグは落合博満監督のもとで圧倒的な強さを見せた中日ドラゴンズ。そして、パ・リーグは3位ながらクライマックスシリーズを勝ち上がった千葉ロッテマリーンズ。その中には佐々木と同じ青山学院大学出身の井口資仁などそうそうたるメンバーがそろっていた。岐阜県に住んでいた佐々木はナゴヤドームにプロ野球の試合を父とともに見に行くことがよくあったという。剛速球で三振の山を築く投手。豪快なアーチを描くホームランバッターたち。佐々木の目に映るプロ野球選手は憧れの姿である。2010年の日本シリーズはほぼ全ての試合を観戦するというほどの熱狂ぶりだった。3勝3敗1分で迎えた第8戦。試合はロッテが1点リードのまま9回を迎える。「1点負けている場面で和田がフェンス直撃のスリーベースヒット。ブランコが犠牲フライ。わくわくというよりも勝ってくれという気持ちが強かった。最終的には負けてしまったが、野球を観戦してきた中でも印象的な試合だった」。そんなことを今でも興奮気味に語る。多い時には週3回ほども球場へと足を運ぶことがあったという。そしてそれ以外のときは父や兄とともにテレビで観戦する。佐々木の幼少時代はプロ野球とともにあった。「小学生のとき試合が長くなり、寝てしまったときは、次の朝に新聞を見ていた。新聞を見て今日は巨人と何ゲーム差かな。明日からは巨人と直接対決3連戦だな。だから今日は早めに寝て、明日は夜遅くまで起きていようかな」。とにかくプロ野球が好きだった。
高校時代の目標は甲子園に出場することとプロ野球選手になること。新型コロナウイルスの流行で甲子園は代替大会のみの開催となった。県立岐阜商業高校の監督である鍛治舎巧には「ここで君たちの野球人生は終わりではない」と告げられる。甲子園に行くことは確かに大きな目標であった。しかし、最終的な目標は幼い頃から憧れを抱き続けたプロ野球へ行くこと。そして、青山学院大学野球部へと進学する。コンスタントに試合に出続けた4年間。佐々木の夢は2024年10月24日、広島東洋カープから1位指名という最高の形で叶う。
東都は甘くない

青山学院大学野球部へと入部した佐々木。ルーキーイヤーにいきなり爆発的な成績を残す。打率.371、4本塁打。当然のようにベストナインに選出される。東都に衝撃が走る。すごいルーキーが現れたと。佐々木は当時を振り返る。「高校までにやってきた練習のアドバンテージがそのまま大学1年生に出たかなと思う。2年生以上の人が自分が気楽にプレーすることができるような言葉をかけてくれた。1年生で何も考えずにただ打つだけという思いで打席に立つことができた。1年春に打てて意外と行けるじゃんと思った。このまま4年間続くことはないかなとは思っていたが、もっとホームラン打ちたいという思いはあった」。一度、活躍すると当然マークも厳しくなる。成績は1年秋にはすでに低迷し始める。ホームランこそ2本を放った。しかし、打率は.229に落ちる。「攻め方も変わってきた。ノーストライク2ボールから変化球、1ストライク3ボールから変化球を投げてくるといったように投手不利なカウントでも変化球を投げられた。インコースも攻められるようになってきた。まともに勝負してこないのはだんだん感じるようになった。打てなくもなった。東都の厳しさだった」。今、入部時の自分自身にアドバイスを送るのであればどんなことになるのか。「そんなに東都甘くねーぞと言いたい。1年目に打てて浮かれた。危機感はなかった。打っても調子乗るなと言いたい」。
東都リーグは厳しい。どんな強豪校であってもまずは残留争いを避けるために必死に1勝をもぎとろうとする。そして、それが終わってからはじめて優勝争いができるのである。入れ替え戦も当然、厳しい。その熾烈さは間違いなく日本一であろう。全国大会の舞台を何度も経験した佐々木の言葉には説得力がある。「全日本大学野球選手権では点差が開くと相手チームの集中力がなくなる。他にも厳しいなと感じる部分もあるが、点差が開いたとしても、負けていたとしても常に抜かずに諦めないで戦ってくることが一番の厳しさだと思う。実際にそこから追いつかれた試合もあった」。打撃不振から抜け出すことは容易ではなかった。
2年生になると成績はさらに落ち込む。1年生のときには6本も放つことのできたホームランはわずかに1本。秋には打率が1割台にも落ち込んだ。「2年目のシーズンはしんどかった。あれだけ1年生の時は打てたのに。もっとできるのにという思いが先走って自分のバッティングを見失っていた」。そして、大学4年間を通した佐々木が最も悔しいと感じたという試合がやってくる。
2022年10月19日、青学大対駒澤大2回戦。勝てば優勝という重要な試合に青学大は臨んでいた。7回まで点は全く入らない。8回に青学大が2点を勝ち越す。しかし、その裏に駒澤大が1点を返す。1点リードで迎えた9回裏、青学大のピッチャーは下村海翔(現・阪神タイガース)がそのまま続投する。先頭ランナーをヒットで出塁を許す。続く、打者の打球は佐々木の守るサードへと飛ぶ。不規則な打球ではあった。しかし、それを佐々木ははじく。ノーアウト一・二塁へと一気にピンチが拡大する。その後、バントを決められる。下村から変わった常廣羽也斗(現・広島東洋カープ)も流れをそのまま止めることができず、サヨナラ負けを喫する。神宮大会への挑戦権をあと一歩で掴むことができなかった。エラーをした佐々木に寮までの道中の記憶はまったくない。先輩には「大丈夫だ」と慰められた。しかし、佐々木は大丈夫ではなかった。なかなか打撃で結果が出ない中のミスだった。「下級生ながら監督が自分を使ってくださった。直接は言われていないがこのメンバーのなかでなんで彼は打ってないのに使い続けられるのかと思ってた人もいると思う。それでも打てないのはもどかしかった。なんとか打ちたいなと思ってやっていた。自分のミスで負けていた。もうそういうのはしたくない。優勝したいという思いがあったのに、それを自分の手でなくしてしまった」。
夢は10連覇

あと一歩で優勝を逃す2022年秋季リーグとは裏腹に、青学大は2023年春季リーグで快進撃を続ける。5月11日國學院大学を中島のサヨナラヒットで制すると翌日も大勝して、実に17年ぶりのリーグ優勝を果たす。2部から上がってきて初めての1部という状態から始めて、まさか日本一と思っていた。ただただ一部に残ることしか考えていなかった。3年春に初めて優勝したときは2年秋の借りを返すことができたと思った」。そして、直後の全日本大学野球選手権も東京六大学野球で3連覇中の明治大学に完勝し、日本一に輝く。佐々木にとっても人生初のリーグ優勝となった。そして、主将となった4年次。厳しい場面はいくつもあった。打撃の調子が上がらない場面もあった。「チームは開幕から調子が良かった。その中で自分は成績が上がらなかった。そこが一番難しかった。自分が打てないけれども、チームは勝ってる。下は向けない。チームが勝っているから良いんだと自分に言い聞かせて練習していた」。優勝をかけた日大戦や中大戦。思い返せば重要な試合はたくさんあった。大観衆の前でのプレッシャーはもうなくなった。それでも、大事な試合だからこそ生まれる緊張感とは常に戦っていた。「日大戦も中央戦もここを取らないと四冠は取れない。こういう壁を乗り越えてこそ四冠を取るチームの器だと思っていた。全日本大学野球選手権も優勝したいという気持ち一心で打席に立つことができた。四冠を目指していたが、まずはここ取らんとと思っていたのでほっとした」。秋季リーグは主力の西川史礁(龍谷大平安・4年、千葉ロッテマリーンズから1位指名)や小田康一郎(中京・3年)といった主力の怪我による離脱もあった。それでもチームは動揺しなかった。「秋は主力が抜けたと言われていた。自分たちの中では西川、小田がいなくても誰が出ても良い準備ができていた。みんなの気持ちは左右されなかった。やるべきことを淡々と積み重ねた結果、優勝することができたいつも通りのシーズンだった」。佐々木自身も神宮大会中にアクシデントがあり、決勝では試合に出場していなかった。それでも、チームは変わらず強かった。そして、神宮大会を制し、四冠を達成したことは周知の通りである。「最後のアウトをとったときはもう嬉しかった。最高の最上級生みたいな感じだった。試合には出ていなかったが、たまらなく嬉しかった。ベンチから見る景色はリーグ戦ではあまりなかったので、試合に出ているよりも見る方がはらはらするなと思った。本当に後輩たちは頼もしかった」。そして、試合後のインタビューでは10連覇を公言した。「試合にも出ていなかったので、盛り上げて目立っとこうかなと思った」というのは後日談である。それでも、気持ちは本気である。「それくらいの気持ちでやれば満足することなく常に上を目指すことができる」。主力を欠いていてもいつも通りの結果を出したチーム。その先頭にいた佐々木。満足行く結果を残した。「チームは最高でしたね。4年生は最終的には神宮大会の決勝には一人もスタメンには入らなかった。それでも勝つことができたのは後輩たちのこれからの自信にもなると思う。後輩が4年生のためにといった雰囲気を持ってやってくれていたのが嬉しい」。
イメージはできているか

思い描くような活躍はできたか。厳しい戦いで活躍できなかった。思い描くような活躍ができた。そう答える選手は多い。佐々木泰は良い意味で思い描くような活躍はできなかった。もっとも、それは思い描いた以上の活躍であったからであるのだが。佐々木が打率3割を残したシーズンは2回ある。1年春と4年秋である。勢いのあった1年春。苦難を乗り越えてつかみとった4年春。その価値は違う。「それまでの過程があったからこその3割。4年の方が価値はあるのかな」。もちろん技術は成長した。それ以上に人として成長した。「一番の成長は技術面も変わっているが、人間的な部分が成長した。それまでは雑な野球選手だった。打ったあとの走る姿や守備につく姿、自分としてもやり切れていないところがあった。監督からも言われた。学年が上がるにつれて、自分がやらなければいけない立場になってきて、守備につく姿も心がけてやるようになった。最終的には無意識になった。野球人として成長できたのかな」。兄のような先輩。苦楽をともにした同期。弟のような後輩。仲間がいたからこそ4年間が充実したものとなった。「4年生に対しては4年間ありがとう。チームのために出れていない選手が多かったが、チームのためにやってくれたことに感謝の気持ちでいっぱいと言いたい。後輩に関しては最終的に試合に出ていなかった4年生のために自分たちを四冠を取ってくれた世代にしてくれてありがとうと言いたい」。
秋季リーグの頃には黄葉が一面に広がっていた青山学院大学相模原キャンパスの木々も12月上旬になるといくぶん冬の様相を呈する。しばらくすると黄色い葉は完全に落ちる。寒い冬といっても動物たちにとってはつかぬ間の休息の期間である。そして、新緑の季節がやってくる。その頃になると佐々木はもう広島へ行き、キャンプで汗を流しているのだろうか。新たな季節はもうすぐやってくる。
青山学院大学野球部では朝5時に朝練開始30分前を告げる放送が流れる。佐々木も現役部員であったころはその放送に叩き起こされていたことだろう。それでも今は違う。今日もその放送に一度は目を覚ます。朝練習に向かう後輩たちを横目に佐々木は再び床につく。そして、後輩たちが練習から戻ってくるころにはふたたび目を覚ます。次の季節の前の少しばかり長い休みの時である。
ドラフト会議から1カ月以上が経った。はじめは全くなかった実感も次第に湧いてくる。広島から現れる報道陣。仮契約。大学時代とは比べものにならないほど注目度は上がっている。当然、期待は高まる。プロで活躍できる自信はあるのか。そんな質問を投げかける。「活躍できれば一番。自信はあるっちゃある。それに向けて準備はしたい」と前置きをする。そして口を開く。「そこまでプロは甘くない」。ルーキーの自分に「東都甘くねーぞ」と言ったように。
2024年5月29日、佐々木は優勝がかかる中央大学戦でホームランを放った。前日にはホームランを打つ夢を見た。そして、同じようなホームランを現実でも放った。イメージトレーニングが好きだ。自分の一打でチームを優勝に導くイメージトレーニングをしてきた。今はプロ野球の球場で大観衆に囲まれてホームランを放つ姿をイメージする。頭の中に流れているのは子どものころに球場で流れていた応援歌。そして、佐々木泰は打席に立つ。夢の中の相手は同学年のライバルの髙橋宏斗かもしれない。あるいはアメリカのメジャーリーガーかもしれない。目を覚ました佐々木泰がアーチを描く姿はもうすでにイメージできている。
(写真は青山学院大学野球部提供)
筆者注:佐々木泰内野手は2025年シーズンにおいて54試合に出場すると、187打席、49安打、打率2割7分1厘の成績を残した。2026年WBCにかかる侍ジャパンのサポートメンバーとして選出され、ラグザス侍ジャパンシリーズ2026の中日戦(バンテリンドーム)では2回表に柳裕也投手からレフトへのソロホームランを放った。
