※この記事は「スイッチヒッター2025年大学社会人野球ver」に掲載された記事を加筆修正の上、公開したものです。この場を借りて、仙台大学に感謝の意を示します。
公立高校を選んで
肩だけは強い選手。平川蓮の小学生あるいは中学生の頃のプレースタイルを一言で表現するならばそんな言葉が当てはまる。野球に関して大いに目立っていたわけではない。バッティングが得意だったわけではない。しかし、北海高校で指導者を務めていた父の平川敦からきちんとした投げ方を幼少期から教わったため、肩は強かった。当時はただ野球が好きだった。練習をするというよりも、野球に携わる形が練習であったということであろうか。そして、高校進学のタイミングで一つの転機が訪れる。北海道屈指の強豪校である北海高校に進学する選択肢もあった。「北海高校に行ってスタメンで出たら、息子だからと批判されると思った。その中で野球をしていてもつまらない。北海のOBとかにとらわれずに高校に行って、北海を倒すのが面白い」。選んだ進学先は公立高校である札幌国際情報高校であった。入試にあたっては小論文や面接の対策もした。学費の面についても考慮をした上で進学先を決定した。札幌国際情報高校はいかなる高校であるのか。「公立高校にしてはちゃんと練習をする。本気度は他の公立高校と違うなと」。こうして平川蓮の高校野球生活は始まった。
先輩との出会い
高校では一人の先輩との出会いがある。1学年先輩の原田航介(現・トッキュウ・ブルーローズ)である。平川にとって原田はどんな人なのか。「人間力マックスで野球に対して、情熱的で面白くて優しい人だった。野球のことはもちろん、人間性や礼儀などの野球以外のことも教わった」。印象に残る試合がある。「2年夏の決勝で原田さんが球数制限にかかる1週間で600球を投げていて、自分が2番手で投げた。感慨深かった」。高校時代の平川は今と違ってピッチャーであった。中学時代の投手・平川は「球が速いノーコンピッチャー」であったと振り返る。高校でもピッチャーは継続したが、フォームもバラバラで肩への負担も大きかった。野手らしいフォームから投手らしいフォームへの変更することに力を注いだ。「高校では人間力野球を学んだ。国際情報の野球では相手がいないと野球ができない大切さを学ぶ。道具についても私立高校だとお金があると買える。お金がないから買えないと物のせいにしたら負けだと思う。施設がない状態で勝つのが公立高校。日常から考えてやらないと負けるということを学んだ」。そして、将来的には指導者となることも考え、教員免許を取得できる仙台大に進学した。
ポジションの変化
今でこそ大学日本代表にも選出されるような大学野球を代表する野手となった平川であるが、入学当時は野手ではなかった。高校の延長線で投手としてプレーしていたのである。球速も高校の時の140キロから144キロまで向上していた。レベルの高い周囲のピッチャーを見ながら、実力を上げなければならないと感じていた頃のことであった。1年春の新人戦が終わった頃、コーチの小野寺和也から告げられる。「高校時代は4番だったのか」。平川は高校時代4番であった。「バッティングは好きか」。バッティングは好きだった。そして、バッティング練習に入ることとなる。評価は高かった。走力の計測においても良いタイムを出した。試合に出るためならばやるしかない。投手に加え、野手の練習を始めることとなる。はじめは投手と野手を同じほど練習をいていた。しかし、次第に野手のウェイトが少しずつ大きくなっていった。両方の練習をすることは難しい。それでも、試合に出ることが何よりも大事だった。1年秋には代走要因ながらベンチにも入った。その頃には野手に完全に専念することとなった。スイッチヒッター以前の問題として、投手から野手という重要なプロセスが存在する。
どうしてスイッチを選んだか
打撃の良かった平川はなぜ両打ちになったのか。まず、野球を始めた小学生から高校生までは右打ちであった。高校2年生でコロナ禍が直撃する。投手を中心に練習していた平川は投げ込みを多くしたため、肘を痛めた。そして、右打ちから左打ちに転向したというわけである。両打ちへの転向は大学2年の時である。この時も指導者から告げられた。監督の森本吉謙は言う。「右でも打てるんだろう」。右でも打てた。久しぶりの右打ち、金属バットから木製バットへの変化。決して適応は容易ではないように思える。しかし、平川の適応は早かった。試行錯誤もあった。高校時代の状態の良い右打席に戻ることがないと考える時期もあった。それでも、多くの他の両打ちの選手と比較するとすんなり両打ちに収まった。練習ではバランスを意識した上で練習をしている。「左の方が自信はあるが、左の時はピッチャーからしたら、結構雰囲気は怖いけれど、右はあんまだなとは思われたくない。なんとなく打てそうな雰囲気のバッターはどこに投げていいか分からない。右でも打てそうな雰囲気になるために、ピッチャーが嫌がる構えをしたい」。警戒されている左と同じくらいに右を伸ばせばさらに強打者となることができる。
難しいことはないか
「練習をやっていて、しんどい時期はない。野球に対してしんどいと思ったことはない。それは野球が好きだから。打てなかった時期もあるが、課題を見て克服することができるので、打てない時の方が楽しい。野球をやってる感じがあった」。多くのスイッチヒッターが右打席と左打席のバランス感覚を含め、悩みをこぼす。しかし、平川にとってそのような悩みも野球を面白いと感じさせる要素である。平川にとって右打席と左打席はどのように違うのか。「自分は左右で別人格だと思うくらい違う部類になる。バットも違うし、装備も違う。平川蓮がもう一人いるくらい違う人で多重人格みたいな感じ。怖いけれどそれが良いなと。それができるのはスイッチヒッターの特権だと思う」。バットは左右で重さも形も違う。「左も右も同じスイングはできない。左右どちらかに癖があるので、それで同じバットを使っていても、自分に合ってないバットを使うことになってしまう」。左は少し重めの86センチのバット、右は軽めの84~85センチのバットを使っている。高校時代から慣れている左は思いものでも振りやすい。右は重いものを使用すると、肘への負担あ大きくなってしまう。細かな調整である。
上のステージを目指すということ
平川にとって上のステージを目指すことを決意したターニングポイントが二つある。一つは2学年上の辻本倫太郎(現・中日ドラゴンズ)がプロへ進んだ瞬間。常に全力で試合に臨む姿に刺激を受けた。もう一つは松山で行われた大学日本代表候補合宿に選出された瞬間。合宿ではレベルの高いピッチャーからヒットを打つこともでき、自信になった。ほとんどの人が挑戦することも少ないスイッチヒッターで上のカテゴリーへ挑むことは「ロマン」である。最近ではスイングスピードを計測することもある。すると、両打席で160キロを超える数字を叩きだすのだ。50メートル走でも5秒台の数字が出る。後は守備である。内野から外野に転向した平川にはまだまだ伸びしろがある。「状況に応じた守備の判断が自分にはまだ足りていない。外野歴が浅いのもあるが、それを言い訳にしては終わりだと思う。知識もまだない、まずプロになるには知識を覚えてから、実践をしないと順番が逆になってしまう」。走攻守そろった外野手に向かって着々と歩んでいる。ゆくゆくはプロ野球の舞台で両打席でホームランを打つスラッガーとなっているかもしれない。
