【勇往邁進】第3回・山田拓朗さん(オイシックス新潟OB)「速球派サラリーマンの現在」<後編>

新潟でかつての同期とトライアウト

 ドラフト会議で指名はなかった。最後の大会である横浜市長杯でもチームは上武大に逆転負けを喫し、大学野球が終わった。2週間あまりは宙ぶらりんの期間が続いた。やっぱり野球を続けたい。そう思い始めたのはその頃だった。「自分が山田拓朗を客観視したとき、あと1年やれるなら辞めるのはもったいない。足りないところを補えばプロになれるかもしれない」。それが第一の理由だ。もう一つは同期のヘッドコーチ(学生コーチの中でチームを統括する役割を持つ役職)を務めた森口尚哉の言葉だった。森口と進路について語り合う。そこで出てきたのが「一番厳しい道を選ぶ」という言葉であった。森口自身もヘッドコーチという一番厳しい道を最終学年で選んだ。森口は優しい人だった。人の心を考え、皆でふざける時は一緒になってふざけるような人だった。しかし、ヘッドコーチになってからは変わった。人が変わったように厳しい言葉をかけた。それでも、厳しいだけではなかった。二人で話す時には温かい言葉をかけることもあった。そして、「史上最高のヘッド」と称されるようになった。全ての試合が終わり、森口は笑顔を見せる。チームの皆が安堵する。「森口が戻ってきた」と。山田もまたもう一度厳しい道を歩むことを決意する。「野球を続けるからにはプロになりたい。客観視したときに、野球選手山田拓朗をプロに行かせるにはオイシックスが一番良いと思った」。そして、次の年からファーム球団としてプロ野球に参戦するオイシックスのトライアウトを受けることとなる。奇しくもトライアウトでバッテリーを組む相手は岩室 真(現・富山GRNサンダーバーズ)だった。筑波大学野球部にともに入部をするも、3年次には退部し、茨城アストロプラネッツでプレーしていた。山田とも仲が良かった。試合ではバッテリーを組んだことはなかった。それでも、「こいつとなら大丈夫」。どこか余裕があった。割り切ることができた。トライアウトの結果は合格。山田のラスト1年が幕を開けることとなる。

高級食品は目につかない

 チャンスは1回だけと決めていた。野球選手としてプレーするのはあと1年。金銭的な問題もあった。「同期が良い会社に就職していた。自分はこんなことをしていて良いのか。野球は辞める方が勇気がいる。大学から次のステージで続けるのは勇気がいる。終わりがない世界に入ると辞める勇気がいる。チームを変えてなんとなくやる人もいる。決断がいるのは辞めることではなく続けること。もう一年やろうかなというのはなしにしようと思った」。金はなかった。家財道具は大学卒業を期に捨てるものを同期からもらった。捨てるはずの車ももらった。激安スーパーである「ラ・ムー」で4個で100円のコロッケを買った。「色んな感性を無駄にしながら過ごしていた」。かつてを振り返り、山田は笑う。

 「新潟での生活は語れますよね」。これまで関わることがなかった選手とともにプレーすることで異なる考えを学んだ。環境も異なる。ナイターの試合は18時には始まる。13時には球場に入る。練習も毎日あるため、試合に合わせた練習というのは難しい。大学時代はリーグ戦が週末にあるため、木曜日や金曜日には瞬発力を高めるトレーニングを行う。新潟ではそうも行かない。週に6回試合があるため、きりがない。体力を落とさないための基礎的な練習を行い、シャワーを浴びる。食事を取ると、仮眠を取る。試合が始まりしばらくは眠り続ける。大先輩からは仮眠について学んだ。プロ野球球団でプレーしてきた吉田一将や三上朋也から告げられた。「『やまちゃん、試合前に寝ないとしんどいぞ』と言われた。ああそういうもんかと思った。打たれた試合でも、『やまちゃん気にしてたらしゃーないで』と言われた。大炎上してヤジられても、先発ピッチャーに『ごめん』と叫ぶだけだった」。アマチュア野球では打たれたら反省して、落ち込むべきというような風潮があるように思われる。しかし、毎日試合がある場合には通用しない。「大学のときは朝からスイッチが入っていて、気が空回りすることがあった。新潟で学んだそのメンタリティで大学に戻りたいと思うこともある」。

あともう少しで辞めるところで…

 オイシックス新潟アルビレックスBCは2月にキャンプインする。良いところを魅せたい。メディアが来ていたのも相まって飛ばしすぎた。気合いが空回りした。四球を連発した。3~5月まで1試合も登板機会は与えられなかった。「学生と違って野球で結果を残すことが一番。俺、こんな寒い中で野球の試合も出れずに何しに来たんだろう。プレーはダメダメだった。他は卒業旅行に行っていた。流石にまずいと思って、公園に一人で行って壁あてをしていた。野球少年がいるなかグローブを持って、横で壁あてをしていた」。調子が上向き始めたのはその頃だった。シートバッティングで3カ月ぶりの登板を果たした。試合でも結果を残せる自信がつき始めた。しかし、それから本当の困難に直面することになる。

 調子が良くなってから2週間も登板がなかった。「良かったやん、使えよと思った。筑波では指導者に対して思うことはなかった。もう限界だと思った。5月の最終週に親に『新潟ダメだわ、辞めるわ』と連絡した。川村先生にも『辞めます、別の独立を探します』と言った」。そして後は指導者に退団を伝えるだけだった。

 運命とは分からないものである。山田に登板の機会が訪れることになる。指導者に告げようとしたその日に遠征メンバーに選ばれる。大学同時の寺澤神(現・Honda熊本硬式野球部)が偶然、観戦に訪れた試合でも登板を果たすことができた。「やっと新潟に来たな」。新たな一ページが始まるところだった。9試合連続で無失点に抑えた。敗戦処理という最下位の序列で始まったリリーバーとしての立場も、気づけば徐々に上がっていった。

逆方向にホームランを打たれて

 好投を続ける中でも山田にはどこか閉塞感があった。「心にあったのはこの成績を続けていてもプロには行けない。1イニング限定の右オーバーのリリーフピッチャーだった。コントロールも悪かった。変化球も良くなかった。これでは行けない。現状維持ではダメだと、試行錯誤していたら炎上した。3試合連続くらいで炎上をした」。あれは8月の試合だったか。記憶に深く刻まれた試合がある。埼玉西武ライオンズとの試合だった。対戦するバッターは怪我明けでファームで調整を続けていた佐藤龍世内野手(現・中日ドラゴンズ)だった。ストレートを逆方向にはじき返され、ホームランを浴びた。「俺はこの世界にいて良い人じゃない。プロを目指したとしても無理だと悟った。そこで引退を決意した。自分の一番自信を持っていた球種で調子も悪くなかった。引っ張ってかちゃーんなら分かるが、流して打たれた。良くない時に打たれたなら分かる。自分の持っている全てを出して上に行かれたという感覚がきた」。自らの実力に限界を感じた。「客観的に見て俺にはプロは無理だと思った。自分が投資家だったとして山田に投資をするかと聞かれると危険な株だった」。そして、本当に野球は引退した。大学時代に一度は内定をもらった会社に就職した。そして、サラリーマンとなったのは先に述べた通りである。

予測不可能な未来、10年後は思い浮かべない

 社会人生活は楽しい。新しい価値観が学べるから。これまで野球で当たり前とされた価値観が変わることに面白さを感じている。それがたとえ重大なことでなかったとしても。「野球をやってるときは、昼ごはんのことを昼飯と言ってましたけれど、世間の人はランチというんですね。会社の人に『ランチご一緒にどうですか』と言われてランチなんだと思った。小さいところだが、『こういう家電いいな』、『カフェいいな』と一つ一つを取ったら取るに足らないところでも視野が広がっているような気がする。野球を辞めてもかつての仲間や指導者とのつながりは続いている。「野球やってた分、専門家ぶることもできる。そこで、配球がこうだよとかいう人がいるじゃないですか。それはダサいなと。野球をやってこなかったファンの方と同じ視点で見る野球はコンテンツとして楽しい。野球という言語がなくなった自分にも接してくれる人のありがたみを感じている」。

 夏には都市対抗野球大会の予選を多く観戦した。かつてともにプレーした同期も多く活躍していた。「都市対抗予選を見ていて、一つの目標に向けて真っすぐやることはかっこいいなと思った。そういうものを見つけたいな。かっこいいものじゃなくても良くて、趣味でもやりたいなと思ったことをみつけてやりたいなと思っている」。時には大人の甲子園とも称される都市対抗は選手が多くを背負い、しびれる試合を戦っている。山田もそれに刺激を受けた。「社会人野球はしびれるなと思った。僕はしびれなさすぎるなと。僕はただ仕事をして『ランチ』を食べている。将来的にはしびれる経験をしたい。それが何かは分からない」。

 新潟の時とは違って、1年というタイムリミットがあるわけではない。将来のことをゆっくり考える余裕がある。将来のことは何を思い浮かべるか。「野球をやっているうちは明確なものがある。こういう選手になっていたいというような決められたものがある。将来の理想の姿がないことを楽しみたい。もしかしたら金髪に染めてバンドをやっているかもしれないし、世界中を旅しているかもしれないし、結婚して子どもがいるかもしれない。10年後の姿は分からないし、見通しが立たないのが面白いと思ってる」。そう思えるのは野球を引退して、新たな生活を始めたからである。そんな自由な生活に今日もまた小さな喜びを感じる。そして、踏み出した新たな勇往邁進に大きな喜びを感じる。

(写真は本人提供)

企画「勇往邁進」について

世の中にはたくさんの野球人がいる。それはプレーヤーかもしれない。ファンかもしれない。スタッフかもしれない。彼らはどのように野球と関係を持ち、どのように野球に向き合ったのだろうか。過去にどのように野球と関わり、現在にどのように野球と関わり、未来にどのように野球と関わるのか。それを問いかけることで野球人と文化としての野球を明らかにするためのコラムである。

<筆者からのコメント>

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