【勇往邁進】第3回・山田拓朗さん(オイシックス新潟OB)「速球派サラリーマンの現在」<前編>

半袖の速球派右腕は今

 かつて150キロを連発した右腕はサラリーマンになった。川越東高校、筑波大学、オイシックス新潟アルビレックスBCと歩みを続けてきたプレーヤーとしての野球人生を終え、一人のファンになった。厳しい場面でリリーフピッチャーとして登板することが多かった。今は選手たちの激闘を観客席で見守る立場になった。昨年と比べるといくばくか余裕のある生活になった。「フルベットしないといけない生活、生活の全てが野球を中心に回る」。そんな生活は終わった。米どころ新潟の食は美味である。しかし、それを堪能することも決して多くはなかった。それは健康のためだった。野球のためだった。時に重荷となっていた食生活も変わった。体に良いものだけではなく、美味しいものも食べることができるようになった。新居では自炊も始めた。出社をする。食事をする。家に帰る。かつての同期たちの野球を観戦する。新しい日常は発見の連続のようである。

伸ばすものを伸ばす、捨てるものを捨てる

 もともと上のカテゴリーの野球を見ることが好きだった。中学時代は甲子園を見た。高校時代は東京六大学野球を見た。大学時代は社会人野球を見た。川越東高校では卒業生が多く活躍する東京六大学野球をチームで観戦することもあった。当時、慶應義塾大学でプレーしていた髙橋祐樹(現・東京ガス野球部)に憧れを抱いたのもそんな時期であっただろうか。山田は高校3年生の時に、大学4年生で明治神宮野球大会を制することとなる髙橋の姿を見た。どんな場面でも結果を残す姿に惹かれた。個性的なプレースタイルにも魅せられた。髙橋はいつも半袖でマウンドに上がっていた。こだわりのある姿を真似て、山田も半袖でマウンドに上がる。

 チーム一体で戦う姿に魅力を感じて入部した筑波大学野球部。1年次から厳しい競争に巻き込まれることとなる。山田と同じ右投げでオーパースローのピッチャーが7人ほどもいた。そのうちの大半が140キロを超えるストレートを持つ速球派であった。「このままでは埋もれる。奇抜な発想が必要。捨てるものは捨てる。伸ばすものは伸ばさないと生きていけない」。山田が速球派のリリーバーとなったのはチーム内での競争を勝ち抜くためだった。「大学野球は分業制なので、スタミナや細かい投球術や変化球を追い求めていては勝てない。ショートイニングでもいいから150キロを出すことでチームで色を出していこうとした」。

コロナ禍でのロケットスタート

 山田が筑波大学に入学した2020年は新型コロナウイルスが蔓延する真っ只中であった。当然、野球部の活動も制限された。当時は一人暮らしをしていた山田には時間があった。自らの能力を伸ばすためには何ができるのか考えた。「自分の中で仮説を立てた。体を大きくしたいからジムに行く。投球もこうしたいというのを自分で考えて、一人暮らしだったので夜中12時に部屋でシャドーピッチングをするようなこともあった。自己流すぎないように筑波で基礎の基礎を学び、筋肉が使えるようにした。そこでは全員に共通する部分を覚えた」。努力がかみあってきた。山田の一年目はまさにロケットスタートだった。筑波大学野球部はA~Cチームに分けて活動をする。本来であれば、新人は夏までは新人のみで練習を行い、夏の紅白戦の結果によりA~Cチームに振り分けられる。しかし、コロナ禍でその慣習は変わった。練習の結果で振り分けが決められることとなった。山田はキャッチボールには自信があった。肩も強かった。Aチームに振り分けられた。試合でも起用されるようになった。決してコントロールは良くなかった。それでも140キロ後半の直球を武器に打者を抑える。好調なスタートだった。

Bチームでプロを目指す

 順風満帆なスタートをきり、プロ野球で言うならばクローザーのような山田の大学野球生活は3年次から曇り始める。リーグ戦中にBチームに落ちた。「上級生になって、チームにスタッフとして貢献をしている人もいた。試合で結果を残さないといけない。でも、結果は出ない。肩も痛め、だましだましでやっていた。学生コーチとちょっと合わないこともあった。色々積み重なって、しんどいというのは短絡的だが、野球を辞めた方が楽だろうなという時期だった」。筑波大学野球部では2年次の終わりに選手の一定数をマネージャー、学生コーチ、SSD(データ分析などを担当する役割、いわゆるアナリスト)などに転向させる。チームも「一心」というスローガンを掲げていた。選手として試合で貢献したい。しかし、それがなかなかできない。チームに心が入りきらなかった。応援をしていてもどこかチームが負けても良いと思うようになった。そして、そんな弱さが見えてしまうことにもどかしさを感じた。自慢だった球速も落ち始めた。部屋が近かった石毛大地(現・日産自動車野球部)のことを思い出す。石毛も2年次までは苦労をしていた。Bチームが主戦場の選手だった。「マネージャーやろうかな」。そう語られることもあった。しかし、3年春に才能を開花させ、首位打者を獲得した。「石毛がどんどん活躍していった。自分がどんどん落ちていった。頑張ろうやとダメな時にも語り合える存在だった」。

 3年冬には就職活動を始めた。Bチームでのプレーが続き、野球を続けるという選択肢はなかった。「流石に就活をしないとな」。決してネガティブな意味ばかりではなかった。就活が息詰まる野球の良い息抜きになっていた。年が明けた。ピッチングがかつての輝きを取り戻してきた。球速も150キロが出るようになった。山田は監督である川村卓に申し出た。「社会人の練習に行かせてください」。すると、川村から意外な返答が返ってきた。「お前、プロはいいのか」。山田から迷いが消えたのはその時だった。川村の真意は今でも分からない。Bチームでの生活が長くなっていた山田に「小さくなるな」とメッセージを伝えたかったのかもしれない。あるいは社会人でゲームメイクをするような安定したピッチャーよりも、プロで速球派リリーバーとして輝く道が向いていると見抜いたのかもしれない。もともとプロ野球選手になりたかった。人に影響を与える人になりたかった。今年のドラフト会議で指名がなければ野球を辞めよう。腹は決まった。

野球は続けるか

 「4年生の大学野球は楽しかった。戻れるだけならばその期間だけループしたい。良い同期に恵まれた。このメンバーで野球をやれるのが楽しい。冬からやってきたことが形になってきた。球速も含めてかみあっていく感覚があった」。山田はまたリリーバーとしてチームに欠かせない立場をふたたび取り戻した。プロ注目選手として脚光を浴びる機会も次第に増えていった。

 ドラフト会議が近づく。スカウトが見にくることもあった。しかし、調査書はなかなか来なかった。リーグ戦で頑張って調査書が来ないかな。それでも、当日まで紙が届くことはなかった。ドラフト会議当時も部屋で落ち着いてすごしていた。指名はなかった。「仕方ないなと思った。自分が悪いじゃないですか。プロが欲しいと思われるような結果を残しきれなかった自分が悪かった」。指名がなければ野球は辞める。そう言いながらもどこか将来のことは曖昧だった。ドラフト後、川村からは連絡が来た。「残念だったな、これからのことは一緒に話そう」。気にかけてくれる存在がいることが嬉しかった。そんな優しさで持っていた。先のことは未定だった。(後編に続く)

(写真は本人提供)

<次回予告>後編は2025年8月1日に公開予定

企画「勇往邁進」について

世の中にはたくさんの野球人がいる。それはプレーヤーかもしれない。ファンかもしれない。スタッフかもしれない。彼らはどのように野球と関係を持ち、どのように野球に向き合ったのだろうか。過去にどのように野球と関わり、現在にどのように野球と関わり、未来にどのように野球と関わるのか。それを問いかけることで野球人と文化としての野球を明らかにするためのコラムである。

<筆者からのコメント>

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