仲間との4年間―夢に向かってふたたび羽ばたく

乗り越えた壁は、やがて自分を守る盾になる
「野球ってヒットを打つために何球も練習をしなくてはならないコスパの悪いスポーツだと思うんです。楽しい瞬間は一瞬です」。不動の二塁手としてベストナインを2度獲得し、明治大学野球部黄金期の立役者となった堀内祐我内野手は大学4年間をそう振り返る。「ここで生活していると、(周囲の人に)見られている。毎日が楽しくなかったわけではないが憂鬱だった。練習は嫌いではなかったが、縛られた中でやるのは気が抜けないので辛かった」。しかし、だからこそ達成感は大きい。
転機となったのは3年春のリーグ戦のことだった。「3年春に全く打てなかった時に監督が使ってくれた。なんでだろうと思うとその時は守備が良かった。試合のポイントとなる場面でファインプレーを連発していた」。もともと自信があったバッティングと比べて守備は決して得意な分野ではなかった。それでも、福王昭仁コーチとのノックを重ね、次第と上達していった。そして、いつしかレギュラー奪取の足がかりとなる大きな武器へと変化していった。

4年次の活躍はそれまでの準備があっての結果だ。「今の(冬の)時期だと試合がなくなって、解放されるが、ここで手を抜いてしまっては結果は出ない。こういう時期に貯金をしておくとリーグ戦で活躍できる」。当時、主将を務めていた村松開人内野手(現・中日ドラゴンズ)が怪我により離脱した影響でそれまでで最多の11試合の出場を果たした2022年春季リーグから一転、秋季リーグは村松の復帰によりベンチを温める場面が多かった。それでも、福王コーチには「お前には来年があるんだから来年の準備をしろ」と言葉をかけられた。堀内はその言葉を胸に、出場機会は少ない中であっても準備を怠らなかった。そして、迎えた2023年の春季リーグでは自己最多の12試合に出場し、ホームランを含む打率.340・17安打を放った。首位打者を獲得した飯森太慈外野手との1・2番コンビで打線を牽引した。
卒業後は強豪社会人チームHonda鈴鹿でプレーをする。都市対抗野球大会を何度か東京ドームで観戦した。チームが都市を代表として戦う姿に魅力を感じた。「自分がHonda鈴鹿に誘われたのも地域の貢献のためでもあると思うので、一度は優勝してみたい」。もう一つの目標はプロ入りだ。大学時代は主にセカンドとしてプレーしたが、社会人ではセカンド・サード・ショート、ポジションを問わずにレギュラー獲得を目指す。二年後に夢の舞台への切符を掴めるか。
それぞれの道を歩むとしても…

大学では仲間とともに精神的にも大きく成長した。打席では緊張しないための心がけがあった。「打てなかったらどうしようというマイナスの部分が見えてくるとダメなので、自分はよく打席に入る前にスタンドを見渡して『ここで頑張らなあかんな』と思っていた」。
堀内がもう一度同じチームでプレーしたい選手と語る上田希由翔内野手。同じ愛知県で高校の時はプレーし、大学では主将と副将という立場でチームをともに支えた。堀内は上田について「おとなしいタイプだが、やると決めたらやりこむタイプ」と評する。
そして、熱田泰祐学生コーチ。唯一の4年生の学生コーチとしてチームを影からサポートした。「一人というなかなかない条件で、自分の時間を削って行動してくれた。あいつで良かったなと思う」。明治大学野球部の躍進は熱田の奮闘があってのことだ。
ともに二遊間を組んだ宗山塁内野手。プライベートでも仲が良かった。宗山について「ゲームをしていると本気になる。とことん練習してくるタイプ」と負けず嫌いな一面を垣間見た。「(彼は)マイナスの言葉を発しない。宗山自身が調子が悪かったり、体のどこかを故障していても、これくらいがハンデだとポジティブに捉えて弱音を吐かない。そこはすごいなと思う」。
プロに進み一軍での活躍を誓う者、社会人野球に進み都市対抗での優勝を目指す者、一般企業に就職する者、チームが果たせなかった夢を追い続ける者。卒業後、それぞれは違う道を歩み続ける。堀内は「明治大学野球部に来て良かった」とつぶやく。かけがえのない大学4年間を胸にふたたび前に進み始める。
文責:円城寺雷太 写真提供:あやり