大学野球における若手育成 第21回 筑波大学・岡田啓佑内野手(松山東・3年)

※この記事は「スイッチヒッター~2025年春大学社会人野球総合版~」に掲載された記事を修正・再加筆したものです。筑波大学野球部の協力なくして記事の公開には至りませんでした。この場を借りて、改めて御礼を申し上げます。(年齢・学年は発刊当時のものです)

高校野球に魅せられて~出会い、大学野球、将来~

 出会いは高校野球だった。兄がやっていたから。友人が野球を始めたから。国際大会を見たから。そんな理由で野球を始める選手が多い中で岡田啓佑の野球との出会いは夏の高校野球だった。当時の愛媛県の高校野球というと後にプロ野球の世界へと進む安樂智大(済美高校)が脚光を浴びていた。そこに立ち向かっていたのが川之江高校であった。2013年には友近拓也の指導の下、公立高校ながらベスト4に進出した。準決勝で済美高校に最終回で逆転を許し、惜しくも敗退したものの確かに爪痕を残していた。「じいちゃんと準決勝から見た。川之江の雰囲気が大好きやった。一体感に心ひかれて、あの日帰って野球をしたいと言った。野球したいというよりも高校野球をしたいという感じだった」。今でも高校野球は好きだ。「全部トーナメントでみんな全力でやるし、スターだけで9人組めることはなかなかないから面白い。去年は熊本国府が好きやったけど、負けちゃった。今年は東洋大姫路に注目している」。そして、それから数年の時が流れる。岡田が後に進学することとなる松山東高校はキャプテンである米田圭佑の下で、2015年に21世紀枠で甲子園に出場する。その姿に憧れを抱き、岡田も進学を決意する。「ひざついてスクイズしたり、あの感じを見て憧れた。中学校に行く前から東校に行きたかった」。もう一つ理由がある。かつて川之江高校の監督を務めた友近が松山東高校の監督となっていたことだ。憧れのユニフォームが着たいから。憧れの監督の下で野球がしたいから。そんな理由で岡田の高校野球人生は始まる。

 期待に満ちあふれて始まった高校野球生活は想像と少し違った。コロナ禍により活動は制限された。大会でもブラスバンドにより応援はない時期も長かった。高校野球、最後の試合で岡田はノック中の怪我により出場が叶わなかった。そして、高校野球が終わる。大学で野球を続けること。それはすぐに決まったことではなかった。筑波大出身の友近からは筑波でプレーすることを勧められていた。初めは岡田はそれを受け流していた。「阪大や神戸大に行って甲子園に見に行けたらなと。自分がやるのは考えていなかった」。それでも、考えはしばらくしてから変わる。「今まで自分が安泰ででれるチームしかいなかった、野球も最後だろうし、自分より上手い人で勝負したい」。そして、筑波大に進学する。
 2年次となった昨年、春先まではAチームに帯同していた。突出した武器がない中でAチームに残ることは難しく、しばらくするとBチームに落ちる。しかし、その期間は無駄ではなかった。1年次にもAチームに帯同した時期はあった。しかし、その時は目の前のものに執着してしまい、自らの根本的な能力を伸ばすことができなかった。法政大学出身で筑波大学の修士課程に在籍する對馬大浩から手ほどきを受け、平日は毎日自主練習に臨み、守備にも自信が生まれてきた。

 ショートには力のある宮澤圭汰がレギュラーの定位置にいる。岡田がお手本のようと語るような宮澤の守備はレベルが高い。試合の出場に向けての壁は高い。守備の精度を上げつつ、武器となる足を生かして食い込みたい。大学野球で活躍すること。そして、そのあとは高校野球に携わること。そんな未来を描く。「将来的には高校野球の監督をしたい。そのために筑波大の体育の院に行けたらなと。体育の免許も取りながら野球の勉強をして、高校の教師になって、監督になれたらな」。そして、自分のように高校野球にあこがれを持つ野球人を増やしたい。「愛媛の野球に対する憧れをもって野球をしてくれる人が出てきたらいいなと。高校野球が大好きなので、選手としてはできなかったが、甲子園を目指せたらいいな」。ふたたび原点に戻る。そのための大事な4年間だ。

<プロフィール>
2004年12月2日、愛媛県生まれ。小学3年生から野球を始める。高校は県屈指の進学校として知られる松山東高校でプレー。卒業後は筑波大学へ進学。部員の多くが所属する体育専門学群ではなく、理工学群数学類に所属。若手主体となるオータムフレッシュリーグでもプレー。趣味はお笑い鑑賞。好きなお笑いコンビは豪快キャプテン。