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【ソフトバンク3位】慶應義塾大学・渡辺和大投手「選択の連続、エースのマウンドへ」

※本記事は雑誌「スイッチヒッター2025年春号」における企画「四国の野球」の記事を再構成したものです。情報は当時のものとなります。取材にご協力くださった皆様に御礼を申し上げます。(編集部)

選択の連続、エースのマウンドへ

讃岐国の空と食卓から

 「寿司ではなく、刺身が好きです。寿司だとあんまりいっぱい食べられないです。寿司の方が食べやすいです」。野球選手、それも慶應義塾大学野球部のエースである一人の部員が語ったこのコメントは、彼の生い立ちから現在に至るまでのさまざまなことを物語っている。渡辺和大は、日本で最も小さな都道府県・香川県で生まれ育った。「田舎の街って感じで、そんなに特徴はない街です。でも、星はキレイだなと思いました。こっちではあんまり見えないですけど、香川だとキレイです」。中国山地と四国山地に挟まれた瀬戸内の気候は、年間を通じて雨が少ないことでも知られ、小学校の社会の授業でも習うだろう。オリーブなどの乾燥に強い作物に加え、水産物の生産も盛んである。「魚も肉もおいしいです。魚では、はまちが好きです」。そんなのどかな街で、野球少年は育った。

 慶應義塾大学下田グラウンドは、自然に囲まれた住宅街の一角にある。オープン戦が開催されると、バックネット裏には多くの観客が詰めかける。しかし、試合が終わると閑散とするわけではなく、近隣の住民がしばしば付近を散策する。取材中にも、一人の年配の女性が通りがかった。そして、渡辺と言葉を交わすこととなる。

―山にある「ふき」はとってもいいの?

「多分、良いと思いますよ」

 渡辺は軽く返す。そして、筆者に向かって続けて言う。「よく分からないですね。この山が誰のものかすら分からないです」。彼は独特の感性を持っている。それは野球について語っていようと、他の事物について語っていようと変わらない。

坂出と高松商業、野球漬けの日々

 香川県・高松駅から愛媛県・松山駅まで、特急「いしづち」に2時間半揺られると、人口5万人前後の中規模の都市に何度か列車が止まる。高松を出ると、最初にやってくるのが坂出である。渡辺にとっての「ホームタウン」は、高校のあった高松というよりも、中学のあった坂出であった。人口40万人ほどの高松と比較して、坂出の人口は5万人を少し超える程度。岡山から四国に入る際の玄関口でもあるこの街は、県都と比べると静けさを保っている。香川大学附属坂出中学を経て、ホームタウンを離れて高松に戻る決断は、当時の本人にとって不本意なものであった。中学のある坂出には「地元の友達」が多くいる。高校も坂出か、その近くの丸亀に行きたい。それが本人の願いだった。

 母校を訪れると、練習をしている高校生がいる。「懐かしい感じはありますね。こんな時期が  あったと懐かしくはなっても、もう戻りたくはないかな。今思うと大変だったと思いますね。高校は月曜から金曜に授業があって、6限とか7限までありますけど、大学は行かなくても良い授業もありますから。それで夜9時まで練習していたと考えると、どうやって生活していたんだろうと。今考えるとヤバいなと」。高校では朝7時半からストレッチが義務化されていた。朝6時半に起き、高校に向かう。夜9時に練習が終わると、あたりはもう真っ暗である。そして、自宅に帰るとすぐに就寝する。家はまさに「寝るだけの場所」になっていった。その生活は3年間も続いた。

 高校では、冬によく行う練習があった。2人1組、あるいは3人1組になると、1周200メートルのグラウンドをバトンを渡しながら走り続ける。5周から、多いときには10周を走ることもあった。他の人が走っている時にしか休むことはできない。レース形式で部員が競争をするため、手を抜くことも難しい。彼らは自然と一生懸命になる。

不本意な選択が開いた道

 物事は、その本人にとってベストなタイミングで起こる。そんな言い回しを耳にすることがある。かつては理解することが難しかった出来事であっても、後になってからその意味を実感することは稀ではない。高松商業高校の選択も、きっとそのような出来事の一つだったのだろう。「高校も坂出か丸亀の方が知り合いが多いからいいと思っていたときに、高松商業の名前が出てきました。そっちの方が無理じゃないかと」。高松ならば高松商業か高松高校か。県内ナンバーワンの進学校と言われる高松高校は、決して手の届かない位置にあったわけではない。しかし、公立高校の併願が制限された現行のシステムにおいては、仮に不合格となった場合、私立高校に進学することとなる。結局、高松商業高校英語実務科に行き着くわけである。

 進路選択の背景には、兄の存在も影響した。渡辺は当時を振り返る。「お兄ちゃんは僕と違ってめちゃくちゃ野球が好きで、頭が良いのに履正社に行きたいとか言っていました。お兄ちゃんは高松高校に進学して、遅くまで野球を頑張っていたら成績が落ちちゃいました。だから親がそういうふうに言ってくれたんだろうなと」。当時の渡辺は、指定校推薦という制度があることすら知らなかった。友達がもっといる坂出の高校に進学したい。そう素直に考えていた少年であった。高校は1学年8クラスに分かれているが、英語実務科は1クラスのみ。当然、クラス替えもない。40人のクラスの中で男子は10人。だんだんと受験が近づくと、会話も少なくなっていく。坂出の高校に進学していれば――。しかし、高松商業に進学したことにより、新たな道が切り開かれていくこととなる。

 もう一度、高校を選ぶのであれば、坂出の高校に進学したか、それとも高松商業に進学したのか――。渡辺は答える。「もう一回やるなら……。甲子園に行けて慶應に行けるなら高松ですけど。それが確定していなかったら丸亀かな」。後にプロ野球選手となる浅野翔吾(読売ジャイアンツ)とともに甲子園に出場した日。甲子園に出るということは、世間が思っているよりも大きなことである。「甲子園は良い思い出になりました。野球をやっている限り消えることはない。ずっと『甲子園に行っている選手』でいられます。その時はただ甲子園に行くためだけだったけれど、高校を卒業してから、行っておいて本当に良かったと思うことが多いです」。それは、ある意味、本望ではなかった選択から生まれた最高の結果の一つでもあった。

上京前夜の不安

 人は新天地を前にして、時に希望を抱き、時に不安を覚える。上京を決断した頃もそうだった。「大学に入る時は不安でした。ちゃんとできるかな。都会の人は気が強いのかなあ。バカにされるのかなあと思っていました」。東京六大学野球は、賢い選手が集まり、150キロを連発しなければ活躍できない場所。そんな高すぎるイメージから、怖気づいたこともあった。高校時代、指定校推薦の基準が発表されたとき、慶應義塾大学に進学できることも分かった。しかし、乗り気にはなれなかった。「慶應は行っても試合に出られるか分からないし、卒業できるかも分からないし、大学のレベルをもうちょっと低くした方が良いんじゃないかと思っていました」。入学から3年が経ち、決断を振り返る。「それも親に慶應だと言われて決めました。これに関しては、誰がどう考えても、慶應に行けるんだったら行かせるでしょう。僕がただビビってただけですね」。決して物事を楽観視しない。それは渡辺の一つのスタイルにも見える。「自分の現在地とイメージを比べちゃう。高い方を想像しちゃって、イメージと全然違うと思ってしまう。当時は不安で仕方がなかったですね」。しかし、それはしばらくの間、杞憂となる。

つまずき

 大学入学当初、渡辺は順調だった。当時の慶大には、甲子園に出場経験のある選手はそう多くはなかった。実力を首脳陣にも買われ、春からリーグ戦デビューが見込まれていた。小さなつまずきと大きなつまずきが訪れるまでは。当時の自らに声をかけるなら、何と言いたいか――。神妙な面持ちで答える。「怪我だけはしないように。ちゃんと練習した方が良いよ、遊んでいる時間はないよと言いたいですね」。小さなつまずきだったのは、2週間の免許合宿であった。一日中そちらに時間を取られ、野球に時間を割くことができなかった。すぐに合流するはずだった練習についていくことができなかった。スタートが遅れてしまった。意識高くやっていた方が良かった。後悔が残る。そして、大きなつまずきがやってきたのは、それからもう少し後のことだった。

 下り坂を自転車で走っていたときのことだった。運悪く車道でスピードが出ていた。後ろから車がやってきていた。よけなければならない。よけようとした先には段差があった。段差に平行に近い角度で自転車が入ってしまった。ハンドルはもう利かなかった。体が投げ出された。リーグ戦デビュー目前の不幸であった。全治3か月。さらに悪いことに、怪我をしたのは左投手にとって生命線とも言える左手首であった。しかも靭帯を損傷したため、回転が効かなくなった。「絶対終わったな」。そう言葉を漏らした。

きっとエースになるから

 エースになったあの時。エースと呼ばれ、思うようなピッチングができなかったあの時。渡辺和大は、一年次のつまずきから一歩ずつ階段を上ってきた。そして、ついにラストイヤーを迎えようとしている。もがいた一年だった。「去年はダメでした。めちゃくちゃ考えて、あれかなこれかなと考えても、それでもダメで苦しかったですね」。2年秋の防御率1点台から暗転した。3年次の防御率は4点台。打ち込まれる場面も目立った。「フォームであったり、投げているコースが悪いのかと、色んなことを考えて改善しようとしました。シンプルに球の威力と精度に尽きるかなと。変化球でストライクを入れることを大事にしています。ストレートは今の時代、150キロくらいは出るので、相手の狙っていない球をしっかり投げ込めるようにしたいです。ここで四球はダメというのを考えながらやりたい。そのための実力を身に付けることが大事なのかなと」。課題は変化球。ボールが続いてしまっては苦しくなる場面で、いかに勝負することができるか。試合をつくっていくバッテリーで課題を掲げ、取り組んできた。

 香川からやってきた一人の野球部員は、慶應義塾大学でエースとして最終学年を駆け抜ける。試合をつくることができる投手であるために。打たれ強く、辛抱強く、たとえ点を取られたとしてもイニングを積み重ねていく。決して簡単な戦いではない。それでも、あの日、東京の地に怖気づいた彼の姿はもういない。

<人物プロフィール>

渡辺和大/2004年5月28日、香川県高松市生まれ。瀬戸大橋を結び四国の玄関口の一つである坂出で中学時代を過ごす。高校は県内の強豪・高松商業高校に進学。同期の浅野翔吾(読売ジャイアンツ)。2年夏と3年夏に甲子園に出場。慶應義塾大学に指定校推薦で進学後、2年春からリーグ戦に出場。2年秋には3勝、防御率1.17。3年秋は2勝、防御率4.75。地元でおいしい刺身ははまち。

(写真は慶應義塾大学野球部提供)

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