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【広島6位】NTT東日本・森煌誠投手「徳島から大海原へ―成長の3年目」

※本稿は雑誌「スイッチヒッター2026年春号」における企画「四国の野球」の記事を再構成したものです。情報は当時のものとなります。取材にご協力くださりました皆さまに御礼を申し上げます。

徳島から大海原へー成長の3年目

阿波国の魅力

 「電車ではないですね。汽車が走っています」。一見すると、何の話をしているのかさっぱり分からないだろう。しかし、これは徳島県出身者と他県出身者の会話でよく出てくる話題なのである。徳島県には、全国で唯一、電化路線を走る「電車」がなく、気動車(ディーゼル車)である「汽車」が走っている。他県出身者がうっかり「電車」と言うと、それは「汽車」であるとすぐさま訂正される。NTT東日本・森煌誠もその一人だ。一般的には車社会であるが、学校までは「汽車で行く」というような言い回しをする。

 渦潮で有名な鳴門市で生まれ育った。地形図で見るとよく分かるが、徳島は大半が山地であり、台地や丘陵地帯は紀伊水道に面した東側に集中している。徳島市や鳴門市があるのも北東部のエリアだ。海沿いということは当然、海の幸がおいしい。森もそんな「メシがうまい」街で幼少期を過ごした。「わかめを使った味噌汁がおいしい。貝も有名。徳島ラーメンもおいしい」。東京に住んでいると想像しにくいが、家族の近所付き合いでは「おすそわけ」としてわかめをもらうこともある。そんな温もりの大きさは、高校卒業後、社会人野球の舞台で東京にやってきたときにも感じた。「東京は電車とかも人が多い。人が多いのは苦手なので、しんどいなと。不便ではないけれど、人が冷たいなと感じることがある。あまり他人に興味がないのだろうなと思う。徳島の方がコミュニケーションは多くて、住みやすいと思う」。そんな東京での生活も3年目の春を迎えた。

野手から投手へ、そして成長

 藍住リトルシニアから徳島商業高校へ。小学校卒業後、森は徳島野球のある種の王道を歩んでいく。自身も中学野球といえば軟式野球、そんなイメージを抱いていた。しかし、硬式野球を選んだのには理由がある。「小学校6年生の時に、いろんなチームが合同でリーグ戦をする機会があった。中学に上がる直前の子が集まり、徳島にある50チームが3チームずつ一組をつくって優勝を決める。そこでチームメイトになった子たちがシニアで続けると聞いた。(藍住リトルシニア)の練習に参加すると、こんなところもあるのかと思った。これまでと違う硬式も楽しそうだと思って入った」。小学校は6学年合わせてせいぜい20人程度だった。それが中学野球となると、一学年15人ほどにまで増える。力のあるチームメイトにも恵まれ、四国選手権大会を制したことは良い思い出である。

 後に投手としてU18日本代表に選出されるほど全国区の選手となった森煌誠であるが、その姿は中学卒業時とは大きく異なるものだった。中学時代はもっぱら野手で、投手としてはせいぜい3番手といったところであった。徳島商業高校への推薦も、打力を評価されてのものだったという。甲子園常連であった鳴門高校を倒し、夢の舞台をつかむこと。大きな目標を抱いた森は、内野手として高校野球を始める。しかし、内野手はすぐに「クビ」になる。守備に難があった。それでも、肩は強かった。指導者から肩の強さを評価され、投手に転向することとなる。それからの成長は目を見張るものだった。投手専門のコーチとともに特訓が始まった。まず始まったのは増量だった。前日よりも体重が減っていれば、厳しいトレーニングが課せられた。大きさの異なる5つのタイヤを砂場で30メートル近く引かなければならない。それを何セットも繰り返す。「それがきつかったので、やりたくない一心で頑張ってご飯を食べて体重を増やした。白ご飯だけではのどを通らないので、水を飲みながら流し込むことの繰り返しだった。2時間目が終わるとおにぎりを食べて、食堂で学食を食べて、練習前にも食べて、食べてばかりいた」。効果は体にも野球にも表れた。体重は3年間でおよそ10キロ増加した。苦手だった夏の暑さにも耐性がつくようになってきた。130キロ台だった球速も140キロ近くまで向上した。「投げるたびに速くなっていたので、投げていて楽しかった」。そして、大舞台を踏むことになる。

トップ選手の仲間入り

 2023年夏の徳島県大会。森は決勝で最後まで一人で投げ抜いた。相手は鳴門高校。念願の舞台へ向かう最後の壁として立ちはだかった強豪校を倒し、目標をかなえた。それからの数カ月間は、高校野球生活のピークだった。初戦の愛工大名電高校戦では、またも最後まで投げ切り完投勝利。智辯和歌山高校には敗れたものの、甲子園の舞台で爪痕を残した。そして、予想外だったというU18日本代表への選出。前田悠伍(福岡ソフトバンクホークス)、武田陸玖(横浜DeNAベイスターズ)、髙橋煌稀(早稲田大学)といった世代トップの選手と交流を深めた。「いろんなピッチャーとキャッチボールをしていると、同世代の他の選手には再現性があったが、自分にはなかった。(彼らは)同じフォームでしっかり投げ込むことができる。球が速くて、コントロールがすごくて、試合もつくれて、リリーフでもばんばん投げ込むことができる」。そんな彼らとの1カ月の共同生活を経て、森は未来を見据える。

 世代トップの同期たちは、プロ野球に進む者もいれば、大学に進学する者もいた。しかし、森は異なる道を選んだ。社会人野球の強豪チームへ進む道である。「高校3年間でプロに行ける自信はなかった。高校3年では、たまたま夏が良かった。それ以外は全く自信がなかった。大学や社会人でしっかりレベルを上げて、上位でプロに行けるような選手になりたいと思っていた」。当初予定していた大学への進学を監督の交代により断念し、NTT東日本の門を叩くこととなる。そして、それから2年が経ったのである。

困難からまた一つ階段を上る

 二度のけがを乗り越えて、ようやく安定した投球を披露できるようになった。1年目の4月、いきなり肩を痛めた。森は決して肩が強いタイプではない。テイクバックが大きく、肩に負担がかかりやすかった。けがはフォームに修正を加えるきっかけとなった。森の現在の投球フォームをかつてと比べると、テイクバックが小さいことがよく分かる。もう一つは2年目の9月。肘のけがだった。都市対抗出場を逃したNTT東日本では、多くの選手が補強選手として東京ドームの地を踏むこととなった。すると、同時期のオープン戦は残ったメンバー、すなわち少ない人数で戦わなければならない。当然、彼らの登板機会は増える。森もその一人だった。「調子は良くて、バンバン投げられるような感じだった。それで調子に乗ったつけが回った部分もあった。当時はケア不足で、自分自身の身体と向き合えていなかった。それからはケアをできるだけ早く始めるようにしている。自分が投げる球数も考えながら、逆算しながら試合での投球をするようになった」。

 昨年秋の日本選手権、森は大舞台で登板を果たした。王子戦では、6回1失点と試合をつくった長久保滉成の後を受け、2番手でマウンドに上がった。「試合を壊すわけにはいかないと緊張した。マウンドに上がる前、ベンチで待機しているときに浮足立って、体がふわふわしていた。あまりストレートが走っているわけではなかったが、なんとかゼロに抑えることができたので、結果としては良かった」。そして、今年春のJABAスポニチ大会。日本製鉄かずさマジック戦で先発を任された。「初回は良くなかったが、先輩ピッチャーからのアドバイスを受けて、苦しいピッチングを修正して、なんとか試合をつくることができた」。神宮球場はマウンドが高く、傾斜が大きい。そのため、投球フォームが突っ込んでしまうことが多かった。アドバイスをもとに、ピッチングを立て直すことができた。

飛び出せ、大海原へ

 ルーキーイヤーや2年目とはもう違う。3年目の投手として、チームからの期待も大きい。二大大会優勝を目標に掲げるチームからは、先発としての活躍を期待されている。少ない球数でイニングを投げること。ランナーを出してからも崩れないようにすること。いずれも先発として活躍するための必要条件だ。チームに貢献すること。解禁年である今年、プロ入りを目指すこと。そして、プロ野球の舞台で活躍すること。未来を見据える。それでも、本人は立ち止まって言う。「あまり先を見すぎてはいけない」と。2年前、徳島から東京にやってきた。徳島は「安心できる、ほっとできる町」。そんな町から東京という大海原へと一歩を踏み出した。着実に力をつけた先には、確かな結果が待っている。

(写真は本人提供)

<人物プロフィール>

森煌誠/2005年10月1日、徳島県鳴門市生まれ。堀江北スポーツ少年団を経て、藍住リトルシニアでプレー。徳島商業高校へ進学後、1年次に三塁手から投手へ転向。3年夏に予選全5試合で登板後、甲子園に出場。1回戦の愛工大名電戦で完投勝利。2回戦の智辯学園戦で敗退。卒業後、NTT東日本野球部でプレー。2年目の日本選手権で登板。3年目のJABAスポニチ大会でも登板。趣味は音楽を聴くこと。ヒップホップが好き。好きな曲はIO「Trust Me」。

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